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日本では、着物の時代の名残なのか、女性は色白であるべきという風潮がある。私も、ある時までは、日に当たると湿疹も出るし、母親が色白は七難隠すと言い続けるので(!)、色白が良いと思っていたのだけど、野外でのBBQやイヴェントに参加するには日焼けは避けられないし、少しずつ太陽に浴びていると湿疹は出ないと気がついてからは日焼けは悪くないと考えるようになった。海で、プールで、冬はサロンに通うくらい、小麦色の肌をキープしていた。

 

でも、日焼けはコリゴリと思う日がやってくる。

 

2004年の5月のことだ。

 

私は、会社を休んで、高校時代の友人Tとグアムにいた。現地には、やはり同じ高校の友達Mが住んでおり、短い滞在期間でも、Mとご家族のおかげで、より楽しく過すことができる。帰国の前日は、地元の人しか来ないというビーチに連れて行ってくれた。Mの旦那さんはグアムで生まれ育った人なので、秘密の場所をたくさん知っている。真っ白な砂浜に、なまこだけは見える青い海。一人だけ人を見たけど、小サメを槍でとっていた。食べるのか。

 

その美しい海で、東京から一緒のTと、Mの小さなかわいい坊や達とはしゃぎ、海遊びに夢中になる。日本の日差しとは違うから、こまめに日焼け止めを塗るようにと、木陰にいるMに言われていたので、そのようにはしていた。

 

海でのお楽しみも終わり、日焼けもできたとTと喜び、一旦シャワーをあび、ちょっとおしゃれをして夕食へ。Mの旦那さんが、グアム最後の夜ということで、滞在先のホテルでご馳走してくれるという。ところが、日焼けで痛い思いをし、ちょっと気持ち悪くなったことは過去に何度かあったが、今までにない感覚の気持ち悪さを全身で感じ、レストランのテーブルに着くなり、ゴメンナサイと部屋へ戻ることに。もしかしてコレは、噂の熱中症かも。

 

熱中症が社会問題になり始めたくらいの頃で、NHKのためしてガッテンで症状と対策が特集されていたのを思い出したのだ。冷やすこと、塩分補給をと言っていた記憶があり、即座に、常備品である梅干し純をなめ、ミネラルウォーターを大量に飲み、冷蔵庫にあったボトルを、両脇と股にはさんで横になった。脇と股は温度調整ができる場所なのだそうで、体を冷やすことを行わなければならなかった。

 

体が熱い、頭が痛い、気持ち悪い、吐き気がする、異国で死ぬのかも…、と思いながら寝落ちした。食事からもどった友達に大丈夫かと起こされ、ふらふらになりながら帰国の荷造りをして床についた。峠は越したからよかったけど、友人達には迷惑をかけた。

 

翌朝は、気持ちの悪さは解消したものの、まだ体は熱く、その上、日焼け特有の筋肉痛が全身に走っていた。足がはんぱなく痛い。Mファミリーが空港まで送ってくれるというのだけど、車を乗り降りするのも大変で、 坊や達からは「 Ketchup, you can do it! (ケチャップ、がんばって!)」とずっと励まされる。ケチャップは、彼らがいつの間にかつけた私のあだな。笑ったりするのも、その日焼けの筋肉痛のせいで顔がひきつる。そして、また来るねとファミリーとグアムに別れを告げた。

 

機内が混雑しているということで、Tと私は席がバラバラになり、成田に着いたら飛行機を出たところで待ち合わせの約束をする。四時間もしないうちに日本だからグアムは近い。足も痛いけど、なんとかなるっしょーと思って寝てしまった。これはよろしくなかった。着陸間近に目が覚めると、体に異変が起きていることに気がつく。

 

ふくらはぎが腫れている。むくみやすい足ではあるが、それを越していた。しかも心臓がバクバクいっている。着陸しても立ち上がることができない。まずい状態だ。すぐにCAをよび、足がこんな状態で歩けないと伝えた。集まったCAが皆驚いていた。どうされたのですかと日本語と英語で質問されるけど、日焼けのし過ぎでしょうかと答えるのみだった。

 

全ての乗客が出たところで、車いすが用意された。その前に、化粧室に行くのだが、直前まで、CAに支えてもらって用をたすという情けなさ。

 

飛行機から出たところには約束通りTが待っていた。待てど待てど私が出て来ないと思ったら、車いすで登場だから、驚くのも当たり前、あの時のTの顔は忘れない。大きな目と小さな口が、丸く開いた。即、空港内の病院に行くと、完全な火傷ですねえ、ここで出来ることはこれだけですと、気休めのようなスプレー薬がかけられる。でも、心臓のバクバクが少しおさまりそう。

 

リムジンバスが来るまで、友人Tと、飛行場の人がずっと付いていてくれた。いかんせん足が腫れ過ぎていてミュールも履ける状態ではなく、Tにトランクを開けてもらい、切り返しのあるビーチサンダルに履き替えた。最大の幅にしてやっと足が入るというくらい足が腫れている。

 

ところで、当時の私は海外に行く時はトランクで行き、お土産も自分の買い物も沢山買っていたのだけど、現在は、旅に行く際は、トランクではなく、機内手荷物だけで海外に行くことにした。そのため日常の荷物を減らし、移動がすぐにできる状態にしている。興味のある方は、このブログのメニューの「ミニマリスト」をご覧になってください。

 

閑話休題、リムジンバスにどうやって乗り込んだのは分からない。そして、乗ってから三時間が天国の逆の場所にいるような気分だった。足に血がまわらないということがわかるし、あいにく混んだリムジンバスだったから隣の席によりかかるということもできず、モゾモゾ動いてばかりだった。少し眠りについても、足が気持ち悪く、心臓もおかしくなりそうで、うなされて起きてしまう。隣にいた男性も心配してくれたが、申し訳ないと詫びながら地元に付くまで落ち着かない状態で過した。

 

地元では、母が待っていてくれた。歩けないのでタクシーで迎えにきてくれていたのだが、帰国した日の記憶はここまでしか覚えていない。生きていたのは確かで、もう日焼けはしまいと決めた。

 

次の日は月曜日で、普通に会社に行く予定で旅行の予定を組んだのだが、ふくらはぎは更に腫れ、いつもの太さの二倍くらいになっていた。ボンレスハムどころではない。なんといったらよいか。子豚が一匹そこにいるという感じか。そんな状態だった。動悸は止まったから、まだよかったけど。

 

会社に電話を入れ、歩行が困難なので欠勤をするという連絡を入れたら、その時の上司は、悪い菌が体内に入ったのではないかと言う。世間はそう思うのかと微妙な心境で電話を切った。

 

病院には、一人でどうやって行ったかわからない。そして、医者からは、完全な火傷、スプレー薬で冷やしてください。飛行場の病院でシューッとかけてもらった、あれだ。他にできることはないかと訊くと、これしかないと言う。その日は、スプレーをかけまくった。

 

翌日は普通に会社に行けたと思う。足は通常の1.5倍くらいの太さで、ボトムスをはくときは苦労したけど歩くことができるから行った。

 

問題はさらに出てくる。水着部分以外の頭、顔、全身の皮膚が脱皮し始めた。日焼けはし続けているけど、こんなことは初だった。私が歩く度に、ふわーっと脱皮の残骸が落ちていく。家でも勤め先の出版社でも。出版部のフロアは週一回掃除当番が決められていたけど、脱皮が終わるまでは、毎日私が掃除機をかけた。そのくらい酷いわけだ。同僚や諸先輩方は寛容な人達で、何も言わずにお掃除毎日ありがとうと言ってくれた。

 

週末には、脱皮も終わり、小麦色の肌という状態で、無事に真夜中の著者のクラブイヴェントで本の物販を行うことができ、大きな仕事をはずさなくてよかったということで終わる。でももう、死ぬ思いはしたくないから日焼けはいい。

 

そして、焼いても綺麗な肌だった私に烙印が。猛省のサインだ。グアムの海では肩と背中を太陽にさらしていたから、それによる結果。天然アニマル柄。

 

教訓というものがいくつかある。

 

まず、日差しの強い海でも帽子をかぶること。帽子をかぶると日陰もできるし、一枚の布が頭にあることで熱中症をふせげる。

 

次に、日差しの強い場所での日焼け止めは、ケミカルが入ろうと、日焼け効果の強い製品を使う。肌が弱いという理由で、無添加やオーガニック製品を長年使用しているのだが、10年前の日本には、その手の類いでSPFが高い物がなく、30くらいがマックスで、それをグアムで使用したのだ。ケミカルが入っていない分、落ちも早いし、こまめに塗ったとしても肌を守りきれなかった。

 

最後に、飛行機では体操すること。私がエコノミークラス症候群を知るのは、2004年の新潟県中越大震災のことである。血の巡りが悪くなって引き起こす症状。このグアムの旅までは、機内でのストレッチを考えたことがなかった。日焼けして痛いからこそ、体を動かしたり、正座をし、足がむくまない方法を考えるべきで、寝てしまったのはよろしくなかった(と思う)。

 

日焼けをやめようと誓ったのにもかかわらず、この数年後サーフィンを始める私だった。

 

 

最終更新 08/12/2015 18:49

 

ブロガー、選書家、トランスクリプショニスト、書籍企画編集 / Plenitude Interactions LLC / 元音楽レーベル&出版社勤め / ミニマリスト / 在宅・ノマドワーカー / 女性 / 潰瘍性大腸炎(IBD)歴29年 / お気軽にご連絡ください hello@plen-act.com