スポンサーリンク

 

こんにちは、RealKei JPです。

 

「潰瘍性大腸炎45日の闘病入院生活日記(仮)」の正式タイトルを何にしようかのんびり考えています。

 

45日の様子を始める前に序章的な投稿をアップするとは 「潰瘍性大腸炎45日の闘病入院生活日記(仮)」をブログで始めます   でお伝えしました。

 

今回は、発症してから再燃するまでの29年間の重要なできごとを書きます。長い投稿になりますが、どうぞおつきあいください。

 

正確に言いますと、29年の間「潰瘍がほぼ消えた」時期があって、何年かは病院で検査をしなかったため、「診断」されていない時期はありましたが、難病指定されているくらいの不治の病のため、結局は、薬なしでは再燃してしまうのがこの病気の恐ろしさです。

 

発症したのは15歳の10月。1987年のことです。

 

前回の、「潰瘍性大腸炎45日の闘病入院生活日記(仮)」をブログで始めます  でも書きましたが、グループ合格で仕方なく入学した都立高校はほんとーにつまらなくて、と言うのも、その学校を仕切る人たちは、とんでもない大金持ちや資産家の家の坊ちゃんで、ここまでだったらいいのですが、皆んなヤ◯キーだったのです

 

私の生まれ年は、首都圏30km圏内の公立中学でのヤ◯キー文化が終焉を迎えると言って良い年の前年の学年で(最終学年は1972-3年生まれ)、中学時代は気に入らない年下を「呼び出し」するとか、上級生からの「卒業リ◯チ」で便器に顔を突っ込まれるなどは当たり前の世界でした。

 

金八先生の「腐ったみかん」の文化は、東京の80年代後半に差し掛かった頃の東京にも緩やかに残っていました。

 

山手線圏内の品の良い、文京区、港区や品川区の山の手地域、世田谷の成城、渋谷の松濤、あたりはどうだかわかりませんが、少なくとも、私と縁のある、中野区、杉並区、練馬区、山の手ではないエリアの渋谷区の公立学校はそのものだったと思います(もちろん全部が全部ではないはずですが)。

 

その中学のヤ◯キー行動を続けていたのが、私の高校の男子たちです。

 

なんとなく学校生活には、上中下というようなヒエラルキーが存在しているものですが、そのヤ◯キー達は、下の人間を「昆虫」と呼び、毎日昆虫狩りと言う恐ろしいことをやっていました。

 

校舎はロの字型で、4階まであったと記憶していますが、各階の中庭から昆虫と呼ばれる人を吊り下げるのです。

 

今だったら警察沙汰の大問題ですが、なんせヤ◯キー文化が浸透している年代、一部(私も)がやめなよと言うくらいで、当時の都立高校はやる気なしの教諭が多数でなぜかスルー。

 

これはが毎日目に入る訳で、結構神経にきていたかもしれません。

 

高校へ入る一年と少し前には、在住の中野区内の男子中学生が、いじめを苦に自らお迎えの道を選び、全国的な大問題になりました。

 

そこの中学には、前年まで私の中学にいた学校中の人気者の先生が、「昇格」と言う形でその学校へ赴任したばかりでした。

 

ヤ◯キー文化の時代ですから、生徒達は激しくて、でもこの先生はワルを扱うのはうまいし、弱い立場の生徒を必ず守る人でした。

 

管理職では現場のことはなかなか知りえなかったはずです。

 

この先生がもしその男子の状況を知っていれば絶対にどうにかしていたはずなのに、残念で仕方がありません。

 

管理職として記者会見で深々と頭を下げる姿をTVで観たことは、鮮明な記憶として残っています。

 

通っていた中学を先生が去る時に私に送ってくれたメッセージは、「気がついた時がチャンス」。

 

大人になってから本当にそうだと感じることが多く、その先生のことは余計に忘れられません。

 

また中野区で起きたその大事件は、あまりに身近すぎて、今となってみれば、心の深い傷にはなっていたと思います。

 

こんなだったら私立へ行けばよかったとばかりを思いながら高校時代を過ごし、でも「一応」学校生活をエンジョイしようと、都立高校ならではの体育祭の応援団に参加してみるとか、昔からお祭りを仕切るのが得意なので文化祭の実行委員などにもなってみて、楽しいふりもしてみました。

 

「ふり」が終わって落ち着いたと思ったら、朝お腹が痛くて目覚め、お手洗いに行ったら鮮血です。

 

ここから本題に入っていきます。

 

多分、数回続いた時点では母には言わなかったと記憶しています。

 

しかし、お手洗いの回数がとてつもなく多くなった時に母が異変に気がつき、詳しくを話し、近所の中型病院に駆け込みます。

 

このあたりの記憶は曖昧で、学校に鍋を持って検査食を作ったこと、検査結果を告げられる時「潰瘍性大腸炎という(当時は)珍しい病気で、後にあなたは大腸癌で死にます」と言われたことくらいが頭に残っています。

 

死ぬかもしれないから医者の言うことを聞いてくださいではなく、「あなた死にます」です。生きてますがね。女性の医師でした。

 

悲しかったけど、「あなた死にます」より悲しかったのは、高校生になり、親からジャンクフードの許可が出て、ケンタッキーフライドチキンを生まれて初めて食べた時期でもあり、しばらくは禁止ということには泣けて泣けて仕方がなかった。

 

毎週ではないけど、時々土曜日の帰り、友達と荻窪駅北口にあった(今もあるかしら)ケンタに行くのが楽しみだったのです。つまらない高校生活でも食べることで何かが解消できる瞬間がありました。

 

また記憶がもう薄くなっていますが、その女性の医師からは、ご飯よりも焼いたパンが消化が良いので、パン食に切り替えるようにも言われました。

 

薬は、今もポピュラーなペンタサです。

 

その後の病気との付き合いはうっすらです。つまんない高校に通いながら、癌の手術や治療で家を開ける母不在の家での家事と、ひっきりなしでやってくる親戚の対応で忙しく過ごしてました。

 

高校3年になる前の春休みには、クラスの女の子が肺炎にも関わらず期末テストを受けるために通学し、私は彼女の前の席だったものでまんまと移されたのか、テストの最終日から体がおかしくなって、結果、肺炎にかかりました。

 

縁があり港区の某有名病院に2週間し、この段階で、潰瘍性大腸炎の病院をその病院に変えます。

 

検査をしての診断で、ここでもまたペンタサが処方されます。

 

この時の医師のことはあまり覚えてません。

 

ただ、ピロリ菌の研究が病院で始まった頃だったのか、検査協力させて欲しいと懇願されました。

 

お願いの仕方にカチンときたので、断ったことだけは記憶にあります。

 

それでも、きちんと薬を飲んでいたこと、一年に一回は内視鏡検査をやっていた(と思う)ことは覚えています。

 

ところが、講談社の「フラウ」で連載が始まったある食事法を知ったとき、それまで普通に飲んでいたペンタサや、医師の対応や、食事を、一度疑う必要があると考えました。

 

その食事法は、このブログ内の、タグ 世にも美しいミニマリストダイエット の投稿をお読みください。

 

結果「ペンタサをやめよう」「自分で治そう」ということを考えました。

 

同時に、その大病院にできたばかりの心療内科にも行ってみることにしました。

 

幼少の頃からその時も続いていたトラウマ的なことが潰瘍性大腸炎に関係しているのではないかと考え出したのです。

 

この件に関しては、現在の主治医にも相談しましたが、蓋が開いた時が危険ということで、ここは自分の頭を整理し、トラウマを良いものへ変える努力をするのみかなと思っています。

 

入学した大学は外国学校で、学校内に心理カウンセラーが常勤しており、親友がそこの常連だったこともあり、心を専門家に見てもらうことに抵抗がなくなったこともありました。

 

それまでは、心の病気は異常扱いされる時代でしたから。

 

ところが心療内科に行ってみたはいいですが、検査中に子供の頃のことを思い出すと辛くなり涙が止まらなくなって、病院を走って飛び出し逃げ出してしまいました。

 

病院の最寄り駅である地下鉄銀座線のとある駅まで猛ダッシュしました。

 

当時の私の髪型とファッションは、”DA.YO.NE”や”今夜はブギー・バック”もリリースされる直前の時代の、アフリカ系のヒップホップの人たちを意識したもので、そんな若い日本人が、企業や官庁が立ち並ぶ街を泣きながら走るとは、見ていた人はきっと何事かと思ったことでしょう。

 

医者からも自宅へ連絡がありましたが、先生とお話したくない、港区のそのエリアには近寄りたくないにまでになり、ちょうどよく、ペンタサをやめるきっかけになりました。

 

時は1990年代の前半、バブルは弾けましたが、CDバブルこれからという頃で、その音楽業界が生み出す泡の世界の中で学生生活を送っていたのでした。

 

2016年、昨年の再燃まで見事にメサラジン系の薬を服用しませんでした。

 

つまりは、20数年飲まなかったということです。

 

内視鏡検査をやっても、薬の処方は断り、とはいえメサラジン成分の入った薬「しか」ないわけですが、当時の医者達は常にヒヤヒヤしていたと思います。

 

なぜならジクジクした症状は頻繁に起きていたからです。

 

それでも長期間、一度も入退院を繰り返さなかったのは、もしかしたら、潰瘍性大腸炎に良いことが既に認められているニコチン摂取がよかったのかもしれません。

 

もう時効ですが、その嗜好品は18歳からです。

 

家以外での喫煙で、30過ぎからは夜のお酒のときだけのスモーカーでしたが、断酒に成功したのと同時に、タバコ自体も不必要になりぱったりと縁のないものになりました。

 

ところが、その7ヶ月後。

 

おかしなことがおきます。

 

急性腸炎→3週間後外耳炎→外耳炎の薬の抗生物質を飲んだ→24時間以内にいわゆる潰瘍性大腸炎の再燃の特徴である下血の症状がでました。

 

薬を服用していた時代も、やめてからも、下血はしょっちゅうあったのですが、外耳炎の薬を飲んだ後の下血は、発症した頃のことを思い起こさせるもので、「これはもしかしたら再燃か」と思いつつ、「私は治せる!」と思い込んでいました。

 

病院にはすぐに行って数日後には内視鏡検査をし、メサラジン系の薬を飲みましたが、まあ治らないこと。

 

実に20数年ぶりの薬ではありますが、こんなに効かないっけというくらい効かない。

 

病状は悪化しているようで、お手洗いは一日何十回と行くことになります。

 

メサラジン系の薬の他、かかりつけになりつつあった漢方の名医と言われる先生が処方する薬、及び、もともと週一回通っていた鍼治療でも手を施しましたが全くだめ。

 

食事も結局は母親にお願いすることになるのですが、食べている最中にお手洗いの駆け込み。

 

睡眠も全く取れず、お手洗いを出たり入ったりだけを過ごす日が続きました。

 

そうこうしているうちに、体重は減り、足が腫れ上がっていきました。消化ができないので、栄養失調になっていくのです。

 

足が重くて歩行も困難、お風呂もシャワーが精一杯、立つのも一苦労、シャワー中にまたお手洗いへ…。

 

母親も違う病院に行った方がいいと言いますが、体を動かすことも億劫、とにかくお手洗いが側にないといても立ってもいられない。

 

そんなとき、知らない番号から電話がかかりました。出てみると母の大親友からの連絡です。

 

もう何十年も会っていないのですが、子供の頃から知っている人で、そのおばさまは十数年前に、子供の頃から丈夫でなかった腎臓の大治療を行い、命からがら生還した過去があります。

 

今も食事に気をつかっていることは母から時々聞いていました。

 

その人が「漢方も鍼灸治療も今すぐやめて、入院設備のある病院に行きなさい」と涙ながらに諭すのです。どうやら母が相談して、そのおばさまが動くようになったようなのです。

 

他人に言われたらどうしようもありません。しかも母の大親友が泣きながら言うわけです。

 

心を改め、次の日には比較的近所の中型病院へ行きました。

 

各種の検査を行い、医者からは今すぐ入院をと告げられます。

 

期間は、多分3週間、でもわからないとのこと。

 

持ち物は家族に協力してもらってとのことでしたが、ちょうど月末で振込などがありましたし、持ち物を家族にお願いするわけにはいかず、次の日からの入院を約束しました。

 

医者は、本当に危険な状態なので、絶対に翌日の◯時に必ず来るよう言われます。

 

この時点でも、3週間ではなく、私は1週間で回復するのだ、などと考えていたのでした。

 

仕事については、週末は自分の会社を動かす作業、平日は派遣会社を利用し、大手通信会社のIT専門代理店で運用を担当していたのですが、派遣先にも迷惑がかけられないので、自宅療養中に完全リタイアしました。

 

職場は、さっぱりとした性格、しかも全員理系出身の、私からすればスーパーマンみたいな人たちばかりで、気に入っていたのですが、こればかりは仕方がありませんでした。

 

派遣会社の担当者は、大病を患ったことのない元気な方で、「潰瘍性大腸炎」という言葉を初めて聞いたそうですが、常に気持ちの良い対応でありがたかった。

 

どうしても書面にサインをしなければならない頃には、既に私は歩行が困難で、母親にお願いするのですが、担当者が九州出身ということだけは伝えておいたら、大分出身の母は、初対面にも関わらず九州話しで盛り上がったと言っていたので、これは助かりました。

 

そんなこんなで、次回のこのシリーズの投稿からは、いよいよ入院生活が始まります。

 

ブロガー、選書家、トランスクリプショニスト、書籍企画編集 / Plenitude Interactions LLC / 元音楽レーベル&出版社勤め / ミニマリスト / 在宅・ノマドワーカー / 女性 / 潰瘍性大腸炎(IBD)歴29年 / お気軽にご連絡ください hello@plen-act.com

 
ブログに関するお知らせ

2017年5月23日からブログの大工事を行っています。メニューバーが複雑になっていますが、2018年6月までに整備が終了する予定です。何卒ご了承くださいませ。