社会との接点について、考えることがある。

ここでいう社会とは、仕事で関わる人や、親しい友人や仲間、家族のことではない。いわゆる世間一般と呼ばれるもののことだ。

人々を観察していると、どんなにマニアックな趣味を持っていても、浮世離れしていても、大衆との接点があるだけで、普通の人に見える。ラーメンが好きだとか、人気の芸能人に詳しいとか、そういうものだ。あと飲酒するかどうか。私には、何があるだろう。

ラーメンは、牛肉も豚肉も食べないので、口にすることはない。たまに中華麺を買い、鶏から取ったスープで食べることはあるが、数年に1回くらいだ。世間のラーメンブームとは、縁がない。柚木麻子の『BUTTER』に出てくる「バターましまし」なラーメンも、私流に作ってはみたいが、この話、わかってくれる方いるだろうか。

細木数子がテレビに出なくなってから、NHKしか見る用事がなくなり、テレビ離れが始まった。それ以降に出てきたらしい芸能人は、ヤフーニュースの見出しにある、名前という文字でしかわからなくなっている。

私が子どもの頃からいろいろ言われていた人だった。しかし、核家族で育った私には、知恵のある、まともな年配者にしか感じなかった。何がよかったかといえば、料理だった。手つきを見れば、普段からやっている人だとわかった。細木数子が出ている番組は、おもしろかった。

テレビの世界には台本があることは、それ以前から聞いていた。

音楽はヒップホップを軸に、過去を振り向くかたちになっている。昔、聞いていたものを聞いている。新しいものは、デトロイトの人たちしか追いかけていない。偏っている。その前に、ヒップホップは主流になったようで、そうではない。

映画は、女優さんの美しい発音の日本語が聞ける昔の映画や、単館系と呼ばれていたような作品を選ぶことが多い。本は、世間で話題の自己啓発本は、資料以外では手に取らない。私が読むものは、社会科学や人文科学、小説だ。

スーパーで買える、私が食べられる素材の加工品や、日用品でも、「いい」と思ったものは、廃番になったり、店頭から消えたりする。買う人が、少ないのだろう。

その上、偏食だ。陸にいる哺乳類の肉は食べない。米を食べるのは、年に数回。いつも食べるものは、キャベツを除くアブラナ科の菜っ葉、鶏、魚介、乳製品、大豆製品、木の実である。

緑茶とコーヒーは毎日飲むが、自分だけのこだわりがあるだけで、人に言うようなものでもない。お酒はほぼ飲まない。10年以上前に、考えがあってやめた。

ここまで考えて、気がついたことがある。私にも、世間との接点があった。

小松菜である。アブラナ科の菜っ葉だ。

小松菜なら、たいていのスーパーにある。「小松菜をよく食べる」と言えば、誰にでも通じる。プライベートの世界では、「小松菜の人」と認識されてはいる。

小松菜はぬか漬けにしたり、「公園の父」といわれる本多静六にならいホルモン漬けにしたりする。鶏や魚介と炒めることも時々ある。

昔、ジャズが好きなタモリが「ネクラ」という言葉を使っていた。ジャズとタモリとネクラ。この三つは、私の中では、しっくりくる。ラーメンを食べ歩かなくても、芸能人を知らなくても、非主流派も生きていける。

そして私には、小松菜がある。