大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。