「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。
何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。
理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。
私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。
新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。
孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。
人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。
幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。
