思い出した考えや用事は、書き留めないと消える。

私の初めてのおつかいは、大人の足で数分の場所にある、小さな商店街の八百屋にきゅうりを買いに行くことだった。三つか四つの頃だ。買い物かごをさげて。

すでに字を読める年だったが、母は「八百屋さんに行って、このお金を渡して、きゅうりを買ってきて」と言っただけで、メモは持たせなかった。「きゅうりきゅうり」と、八百屋につくまで、声に出していたことを覚えている。

何かをひらめいたり、思い出したりしても、メモがとれないとき、今でもあの時のように「きゅうりきゅうり」と呪文のように唱えたくなる。

傘を片手にした日。シャワーや入浴中。端末の画面にも、紙にも触れられない時間がある。雨をしのぐ軒先を探す間に、言葉は形を失う。流れた思考はどこへ行くのか。思い出したという事実すら、記憶から抜け落ちる。

極力取りこぼさないようにしようと、いつの日からか、付箋で対応することにしている。付箋はこだわりがなく、どこででも買えるものだ。バッグのポケットにも、自宅のありとあらゆる場所にも、付箋とペンを忍ばせている。

ひらめき、良い表現、いつものノートに書いていなかった用事、誰かの誕生日、生活用品の在庫。何かあったら書く。

スマートフォンは、指紋認証やパスコードによる解錠を強いる。ノートや帳面は、開くひと手間がある。その数秒の間に、思いついたことや思ったことが消える。

付箋だと、すぐに書ける。

文字になった用事は、物理的な行動へ直結する。書き留めたひらめきは、形のない状態から、ものを作るための素材に変わる。

自分の内に生まれたものを、取りこぼさずに紙へ移すのである。