少し前、SNSを眺めていたら、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って自分のルーツを調べることが、一部の人たちの間で静かな流行を見せていた。
親族の中に文献を残した人が何人かいる私も、そのアーカイヴをたどってみることにした。著作の多かった大叔父の名前があることはわかっていたが、念のため祖父の名前も入れてみた。わりとすぐに見つかった。
長崎に生まれた祖父が、東京の私大を出ていたことは、近年になって知った。祖父が若い頃、東京で暮らしていたこと自体が、私には意外だった。
その後、故郷のミッションスクールで国語の教員をしていたことは前から聞いていたが、デジタルアーカイヴをたどるうち、教壇に立つかたわら、編集や校正といった活字にまつわる仕事にも携わっていたことを知った。多くの本を残した大叔父だけでなく、祖父もまた、活字の世界に身を置いていた。
私は、祖父の顔を知らない。母もまた、自分の父親の顔を知らない。祖父は、母が生まれる約1カ月前、長崎の原爆で死んだ。
出産を間近に控えた祖母は、大分にある実家に身を寄せていた。祖父は夏休みの間、祖母の顔を見るために大分へ来ていたという。そのまま留まっていればよかったものを、祖父は長崎へ帰る汽車に乗った。教え子たちが、学徒動員で三菱系の工場で働いている。彼らの顔を見に行かなければ、と。
8日のことだったのか、あるいは9日の朝一番だったのか。大分から長崎へ向かった祖父の正確な足取りは、もう誰にもわからない。
遺骨もないからだろうか。母も、すでに他界した伯父も、よく口にしていた。実はどこかで生きていたんじゃないかと。私も、時々思った。実は、新しい家庭があったんじゃないか、とか。
長崎出身の友人のおじいさまは、広島で被爆し、その後長崎へ戻って再び被爆したそうだ。それでも80代までご健在だったという。同じ8月でも、人の運命はこんなにも違う。
1978年、大叔父が取り仕切ってくれた三十三回忌の法事の記憶が、かすかにある。生きて会うことは叶わなかった人。それでも、名前の入った文献を読むと、自分にも同じ血が流れているのを感じる。
記録を残すというのは、なんて心強いことだろう。顔も知らない祖父との距離を少し縮めてくれる。
そして、その足跡は、何も紙やアーカイヴの中だけにあるのではない。今日のこの一行も、誰かと誰かを巡り合わせるものになるのかもしれない。
