出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

月: 2026年7月 (1ページ目 (2ページ中))

生きる力、怒る力

怒るのは、とにかく体力を使う。だからここ十年ほど、私のスタイルは、流すことだった。

若い頃を思い返せば、穴があったら入りたい失敗ばかりだ。怒ってばかりで、血の気も多かった。思い出すたびに気恥ずかしくなるようなことも少なくない。もうあの頃には戻りたくない。過去ではなく、未来へ進むしかないのだから。

病と向き合い、副作用に耐え、ただ息を潜めるように暮らしていた時期を経て、少しずつ身体を取り戻してきた。

すると、ある日ふと気づく。元気になると、怒る体力まで戻ってくるらしい。

今月に入ってから、理不尽なシステムと大きな組織に振り回され続けていた。以前の私なら、「大人の対応」という便利な言葉で自分を納得させ、小さな怒りを心の底へ沈め、そのまま流していただろう。

しかし、受け流した怒りは消えてくれない。静かに積もっていくだけだ。流し続けるのは、もうやめよう。力を取り戻した今の私には、怒る力も、抗う力もある。とはいえ、本当の怒りを形にするのは途方もなく骨が折れる。

感情をそのままぶつけても伝わらない。何に怒っているのかを整理し、事実を並べ、相手に届く言葉へと言い換え、文章として組み立てていく。

気づけば、半日近くキーボードを叩き続けていた。ヘトヘトだ。しかも全部、英語だ。

それでも、今は少しだけ心強い。

手元のテクノロジーが、感情ではなく論理として文章を組み立てる手助けをしてくれる。結果がどうなるかは、まだわからない。文章を送り終えた今も、身体は疲れ切っている。それでも、後悔はない。

理不尽をそのまま飲み込まず、自分の言葉で向き合った。そのために使った体力なら、惜しくないと思えたからだ。

怒ることにも体力がいる。

昔は、その体力を怒りにばかり使っていた。UCが再燃してからは、その体力さえ失い、怒ることより、生き延びることを優先する毎日だった。

怒りは大人げないことではない。自分を守る力が戻ってきたということなのだ。生きる力は、怒る力でもあるのだ。

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

流行より透き通るもの

前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。

母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。

今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。

その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。

何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。

思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。

ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。

しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。

結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。

父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。

あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。

手間という名の隠し味

梅雨が明け、酷暑が続いている。火を使う料理を億劫に感じ、この季節はどうしてもサラダの出番が増える。

私の定番、小松菜を洗い、食べやすい大きさに切り、ぶつ切りにしたきゅうりを添える。網に入れて冷蔵庫で冷やし、パラパラと海塩を振る。

そして、この夏、何十年ぶりかで再開した儀式がある。きゅうりのアク抜きだ。

両端を切り落とし、その断面同士をくるくると擦り合わせる。しばらくすると、じわじわと白い泡状のアクが浮かび上がってくる。子どもの頃、両親が当たり前のようにやっていたあの所作だ。たったこれだけの手間なのだが、私には、青臭さがやわらぎ、瑞々しさが増したように感じる。 

昔、テレビで見かけた大物歌手の話を思い出す。行きつけの中華料理店のもやし料理についてだ。あまりに美味しく、店主に理由を尋ねたそうだ。答えはシンプルで、もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ手作業で取り除いているから。その話だけは、不思議と何十年たった今でも覚えている。

もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ取る手間に比べれば、きゅうりのアク抜きはほんの一瞬で終わる。

きゅうりの値段は日によって乱高下するけれど、どんなに手頃な食材でも、手をかけることで特別になる。ひと手間を惜しまない日が、案外いい一日なのかもしれない。何気ない毎日であっても、小さな手間を重ねるだけで、少しだけ味わい深くなる。そんな予感が、かすかな希望になる。 

書いていたら、無性にもやし食べたくなってきた。暑いけれど、今夜は、もやし料理に挑戦してみようと思う。

一秒も渡さない

相場よりも高すぎる時給。あるいは、こちらの希望に、あまりにもきれいに寄り添う勤務条件。画面に躍るその言葉は、喉が渇いたときに見せるオアシスの幻影のようだ。

「応募されたポジションは、先ほど埋まりました。ほかのポジションいかがですか」

面接が始まるや否や、画面の向こうで担当者が放ったあっけない一言に、頭に上っていた熱が、すっと引いていった。

求人票に心を躍らせ、服を選び、普段より時間をかけて化粧をし、髪を整え、パソコンを立ち上げ、指定された時間を待つ。画面がつながった途端、応募したものとは異なるポジションを勧められた。派遣では本来「面接」とは呼ばないはずなのに、その場では、ごく自然にその言葉が口にされていた。

その出来事は、誰もが知る派遣会社と企業で起きた。私はずっと忘れないだろう。

後に、別の斡旋業者から「おとり求人」というものがあることを聞いた。不動産でも、客を呼び込むためだけの「釣り」があるという。まったく同じ構図だった。

魅力的な餌で人を集め、別のものを差し出す。求職市場のそのやり方に、「現代の女衒」と名づけたことを思い出した。

虚偽や誤解を招く求人は、法令や指針でも問題視されているにもかかわらず、他人の時間を平然と軽んじる罠が潜んでいる。ほんの一瞬の出来事に思えても、不誠実さにさらされた身体は、驚くほど一気に体力を削り取られてしまう。その徒労感は重く、心身の奥深くに響く。

画面を閉じて散歩に出た。その時、強く思った。誰かの不誠実のためにすり減らしていい体力も、不快感に差し出す時間も、自分には一秒だって残されていないのだと。

甘い条件に惑わされたかもしれないが、私という人間の価値まで買い叩けたわけではない。幻の椅子を差し出されたのなら、腰かけずにその接続を切ればいい。

今夜はおいしいものを食べよう。私は、誰の釣り針にもかからない。そのために、今日という一日を、自分の暮らしへ返そうと思った。


【お知らせ】2026年9月1日、午後10時17分に更新しました。

鏡の中の二つのパーツ

『人は見た目が9割』という本が売れた時代があったが、大人の第一印象は、もっと単純なのではないか。 

結局、髪のまとまりと眉なのだ。

若い頃なら、少し乱れた髪やくせ毛も無造作な魅力で済んだかもしれない。だが、大人になってからの無造作は、下手をするとお疲れ気味に見えてしまう。私は、くせ毛なら潔く短く切るか、ひとつに結ぶくらいが、一番きれいに見える。ソフィア・ローレンのような髪に憧れても、自分の手だけで近づけるには限界がある。勝負の日くらいは、黙って美容師さんに頭を預ける。私自身、量が多く太いくせ毛なので、髪には少々うるさい。18歳から三十年以上通う美容師さんにも、毎回苦労をかけている。

学生時代までは、渋谷や原宿を歩いているだけで、いつの間にかストリートスナップの被写体になっていることがあった。「その髪、どこでやったんですか」と声を掛けられることも少なくなかった。この話は、またいつか。

そして、眉。ここにもその人の今が出る。描く前に必要なのは、普段のお手入れである。まずは眉毛サロンへ行ってみてもいい。プロの仕事を知り、土台を整えてから、初めて描く作業に入るのだ。昔雑誌で読んだ、メイクアップアーティストの藤原美智子さんの教えを参考に整えたこともあるが、プロの眉には理屈がある。

モデルや女優さんが美しいのは、写真を撮られる機会が多いからではないかと思う。客観的に自分を見る時間が、人よりずっと長い。実は私は、メイク後の自分や、話している姿を毎日写真に収めよう、と思っているのだが、次の日には忘れてしまう。年齢や性別に関係なく、写真や動画で「他人の目に映る自分」を直視する習慣を持てば、少しずつ変わっていくはずだ。鏡の中のキメ顔ではなく、動く自分を確かめること。

洋服も大事だが、印象を決定づけるのは結局、首から上の始末だ。清潔感という目に見えない気配は、高価な服を着ることではなく、自分のパーツと向き合い、整えるための小さな手間なのだろう。


【お知らせ】2026年8月31日午後9時に更新しました。

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社会現象にもなった竹内一郎さんの『人は見た目が9割』(新潮社)
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ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

健やかさの残酷

普通の生活を送るには、想像以上の体力がいる。

朝起きる。着替える。食べる。排泄する。風呂に入る。太陽の光を浴びて、日々の糧を得るために働く。そして、他者との関係を維持する。文字にしてしまえばただの日常だが、これらを毎日滞りなくこなすのは、実はとてつもなく骨の折れる作業だ。

私の場合、夜には体力が底をつくことがよくある。健康を維持するため、小分けにしながら毎日五キロ歩くが、「体がきつい」という瞬間がある。夜にうたた寝することもある。私にとって入浴は、休息ではなく体力を使う作業でもある。体も髪も洗い終え、湯船にまで浸かれた日は、それだけで上出来なのである。こういう日は、睡眠も栄養も足りている。また、人さまの仕事に体力を使い切らなかった証拠でもある。すべてを出し切るのが若い時代の働き方というものだが、経験を積んだ大人は、七割に留め、残りの三割は翌日に持ち越す。それがお互いのためなのである。 

カルテは、百戦錬磨の履歴書

私は髪にも肌にも、ほとんどお金をかけない。

髪は長年の付き合いで自分の髪質を知っているし、エステの類も、いつしか自分で手入れするようになった。その前に、よく寝て、食べて、運動して、日光浴をして、湯船に浸かる。これさえ徹底していれば、わざわざ高いサロンに通う必要性も、そもそも行く気すら起きないのだ。

そんな私が、唯一、20年近く投資し続けている場所がある。それは、歯科医院での、定期的な歯のクリーニング(PMTC)だ。

1カ月から3カ月に一度、欠かさず通う。医院の先生は、20年前に開業した私と同い年の男性。そして実務を担当してくれるのは、10年以上の付き合いになる、一学年下の衛生士さんだ。施術中や診察後に3人で交わす、健康の答え合わせのようなおしゃべりも、密かな楽しみになっている。 

そして、その医院で、私のカルテは一番分厚いらしい。

多くの人にとって、痛くなったり、何かが起きてから駆け込むのが、歯科だろう。実際、周囲に聞いても「痛みが限界に達してから行く」という人が多数派だ。何もない平時に20年間通い詰め、プロの目で虫歯や歯周病の芽を摘み続けているカルテは、年々厚くなっていく。 

だが、私には、これがいちばん効率のいい美容法でもある。髪や服は一瞬で着飾れるが、歯の清潔感と健康だけは、一日にして成らず。

また、プロの専門知識と技術を借りて、自分の体をメンテナンスし続けることは、長い目で見れば、結局はいちばん安く済むような気がしている大問題が起きてから高額な治療費が発生するのは、財布にも応える。

カルテの厚みは、20年間、自分の体と付き合ってきた履歴書でもある。院長は、一応、一生診てくれるというし、何かあっても後継者であるご親戚の若い世代が、コピーロボットのように診てくれるらしい。

一般人も歯は命、である。

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本記に出てくる歯科医院でも扱う、知覚過敏にいい歯磨きです。
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手のひらの上の舞台

ソーシャルメディアをはじめとするインターネットメディアの浸透によって、誰もが何かを発信し、披露できる時代になった。

収益になるかどうかは別として、もともと「発信できる場」を作ったり、発信そのものを生業とする会社に身を置いていた私としては、驚かされる。世の中にはこれほどまでに「物申したい」「伝えたい」「私の作ったものを見てほしい」という欲望を抱えた人たちがいたのかと。

しかし、それはネットが新たな欲望を生み出したのではない。人間の底にあった表現への欲が、可視化されただけなのだろう。人は本質的に、発信して披露したい生き物なのだ。

だとしたら、インターネットが出現する以前、彼らはどんな思いで日々を過ごしていたのか。限られた「発信できる場」に立つ人間たちを、どんな目で見つめていたのか。

「発信する側」の業界にいた人間なら、きっと覚えているはずだ。ネット初期のあの「気軽な発信と披露」をすぐには受け入れられなかった、ざらついた空気を。

今のネットメディアは、企業や組織が入り、第三者の目を入れながら作ることが当たり前になった。だが、出たての頃は違った。後ろ盾もなく、ただ個人の熱量だけで発信している人たちのことを、既存の「場」にいたプロたちは、白い目で見ていた。

かつて、音楽、写真、映像、映画、そして活字の世界には、自分のすべてを費やすプロフェッショナルたちがいた。今は、働き方改革や新型コロナ禍を経て、労働時間は短くなっているように見える。ある者は強い正義感から、またある者は純粋な熱中と楽しみから、その身を削るようにして後世に残る記録を生み出していた。それは、表現にすべてを懸けることが許され、それが価値を持った幸福な時代だったのかもしれない。

 

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命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

値札のついた時間

手元の『岩波国語辞典 第八版』を引いてみる。

「口入れ」、奉公人の周旋を職業とする者。「口入れ屋」。この業は一九四七年、法律で禁止。

「桂庵(けいあん)」、雇い人の周旋業(者)。口入屋。現在では、この業は法律で禁止。

「女衒(ぜげん)」、女を遊女に売る周旋を職業とする者。

「口入れ」や「桂庵」は職業安定法によって禁じられ、「女衒」に至っては言うまでもなく人身売買として法で断罪されている。とうの昔に法律で禁じられ、歴史の闇に消えたはずのこれらの業だが、彼らは合法の看板を掛け替え、立派なスーツを着て現代のオフィス街を闊歩している。

2026年6月2日、公正取引委員会が、人材派遣大手5社に対して独占禁止法違反の疑いで立ち入り検査に入った。派遣先に請求する料金をめぐり、価格カルテルを結んでいた、というのだ。外国の報道がどう扱ったかは知らないが、日本のメディアはこれを一斉に報じた。民間企業だから、カルテルと呼ばれているが、要するに、談合である。誰もが知るもう一つの大手企業が名を連ねていなかったのは不思議ではあったが。

そして、このニュースを見ても、私は少しも驚かなかった。

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岩波 国語辞典 第八版

平均寿命に、十歳を足して

元気に長生きする。そう決めて、生きている。

2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。

ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。

赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。

異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。

私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。

後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。

発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。

それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。

7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。

地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。

そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。

不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。

その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。

そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。

だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。

出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。

だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。 

私という原盤

子どもの頃、テレビで「ルーツ」というアメリカのドラマを見た。私にとっての外国といえば、立川で目にした戦車の記憶や、日曜日の朝に父とよく訪れた小金井公園で話しかけてきた白い肌のお兄さんたちくらいしか知らない頃だった。

幼稚園に通う前の私にとって、そのドラマは衝撃そのものだった。意味はわからなかった。ただ、その光景だけは心に残った。

大学生になり、授業で、原作者アレックス・ヘイリーに触れた。課題のために、ドラマも見直した。それが単なる過去の歴史ではなく、自分の尊厳を力を持つ者に明け渡さないための闘いなのだと気づいた。

卒業後は、出版社で働いた。サム・クックは学生時代に聞いたが、彼の人となりを知ったのは、出版業界にいた15年の最後のほうだった。

サムは、当時としては珍しく、自分の音楽出版社とレーベルを持った人だった。自分の曲の原盤(マスター)を自ら持つ。それは資金も知識も必要とする、当時としては画期的な選択だった。原盤権の仕組みを知らない若い才能が、有利とは言えない契約を結び、自分の作品を手放してしまう例は、少なくなかった。

サムは、その流れに抗い、自分自身の価値を他人に渡さないための闘いに挑んだ。不慮の死を遂げた彼のその気高さに、惹かれている。

そして現代。原盤は、音楽だけの話ではない。

AIは、言葉の外で育っていた

自分なりに求職活動を続けていると、望むと望まざるとにかかわらず、いろいろな情報が飛び込んでくる。

企業はとかく「守秘義務」だのなんだのと厳しく言うが、求人概要には、内資・外資を問わず、企業の姿をうかがわせる情報が落ちている。 

熱心に株式投資をしている人なら、IRだけでなく、日本語や英語の求人情報まで追っているのではないか。そんなことを思ってしまう瞬間がある。

企業が口にする「守秘義務」とは、いったい何なのだろう。 

話題のAI産業も例外ではない。求人概要を眺めていると、そこから見えてくるものの多さに驚かされる。

そして、その求人を眺めながら、私はあることに思い至るのだ。

AIが社会の表舞台に立つようになった今だからこそ、その担い手が誰なのかという景色に、つい目が向いてしまう。 

AIとは、突き詰めれば「言葉」の技術だと考えていた。だから私は、長い時間をかけて言葉を大切に育ててきた人たちが、その中心にいるのだろうと思っていた。  

ところが、求人から見えてきたのは、まったく別の景色だった。

社名は伏せられていても、業務内容や勤務地を追っていくうちに、通信や建設といったインフラ企業の姿が浮かび上がってきた。技術への熱量は伝わってきた。しかし、求人概要からは、言葉そのものや、背景にある文化への関心は読み取れなかった。その印象は、今も変わらない。

AIを支えているのは、言葉を紡ぎ、文化を蓄積してきた会社ではなく、道路や街をつくり、電波を飛ばしている技術の会社に見える。

文字盤の裏側で、足場が静かに組まれていく。

活字の森を出るための荷造り

本も新聞も読まない世界へ」という投稿で、私の古巣の出版業界の、あくまで私の知っている範囲での当たり前が、一歩外へ出れば、いかに通用しないかを書いた。

社内のメールやチャットでは「さま」ではなく「さん」が飛び交い、絵文字が多用される。私が見てきた限りでは、本や新聞を読まない人たちの方が圧倒的多数であり、未婚や子どもがいないことは、異端として扱われる。それが、よその世界のリアルである。

なんらかの事情で活字の業界を離れたり、メインの仕事を変えたりすることがあるだろう。そのとき、この文化の決定的な違いを事前に知っておくだけで、異邦人としての心細さは半分くらい軽くなる。 

歩くことは、私の美容法

毎日、5キロ以上歩く。雨の日も風の日も歩く。距離が延びることもあれば、4キロを切る日もあるが、歩くことをやめない。 

通勤を伴う仕事に就いていれば、ここまで距離を意識する必要はない。そうではないから、自分の中でルールを設定している。 

郊外で暮らし、出版社に勤務していた頃は、毎日10キロ近く歩いていた。日中は、書店や取次を回るなど、歩くことが仕事の一部でもあった。退職後、ほかの業界の仕事をやるようになったが、自宅から最寄り駅までは2キロ近くあった。時間通りに来ないバスを待つよりは歩いたほうが早く、結果として、歩く生活は続いていた。

その後、15歳で発症した潰瘍性大腸炎(UC)が再燃した。1カ月強の自宅療養に続き、1カ月半の入院生活。退院を迎えたとき、私の筋肉量は、80代以上にまで落ち込んでいた。一度、床に座ると、一人では立ち上がれず、階段の段差は、介助なしには上がれない身体になっていた。

実家に頼り、日常生活を取り戻す日々が始まった。最初のリハビリは、家事の一つである調理だった。しかし、20分台所に立つだけで消耗し、横になってはまた起き上がり、料理をして食べるというありさまだった。

「人は老いると、こんなふうに動けなくなるのか」。人生の終盤に訪れるはずの身体の衰えを、私は予定よりずっと早く体験した。厄介なことに、ステロイド治療の影響で、気だけは大きくなっていた。気持ちに身体がついていかず、怪我をしやすい時期でもあった。

退院間際、理学療法士からは、寝込んだ期間の3倍が、体力を回復させるために必要な時間であると聞いた。寝込んでいたのは、約80日。つまり、240日後には元の体力が戻る計算になる。私はその言葉を頼りに、肉親に付き添ってもらいながら、家の周りを少しずつ歩くようにした。

よく寝て、よく食べて、少しずつ家事の幅を広げていった。ステロイドの副作用で、かつらが必要なほど髪の毛が抜け落ちる中でも、歩く距離を少しずつ伸ばし続けた。やがて体重も筋肉量も増え、体力がついてきた。自宅でできる、自分の身体に合った範囲での経済活動も徐々に始められるようになった。その頃には、240日ほどが経過していた。

それでも万全ではない。ようやく髪が生えてきたと思えば、ステロイドの新たな副作用が出てくる。基本的には、いつもぐったりとしていた。このままでは生きていけないと思った。

そんな時、アメリカの進化生物学者、ダニエル・E・リーバーマンの『人体六〇〇万年史』(早川書房)に出会った。その中で、アフリカの狩猟採集民族の一日の歩行距離について触れられている一節があった。「これだ」と思った。女性は一日に7〜9キロほど歩くことを前提に進化してきた。

それからの数年間、私は毎日7キロを目標に歩き続けた。すると、ステロイドの副作用で極端に落ち込んでいた血圧が、元通りの低血圧の数値にまで戻ってきたのである。

やがてフルタイムで働けるまでに回復すると、毎日7キロ歩くための時間を捻出するのは難しくなった。そこで「コンスタントに5キロ」という新しいルールを設定した。

以降、UCの得体の知れない合併症がいつ襲ってくるかという不安は常にあるものの、大きな病気をすることなく日々を過ごせている。

介助なしで歩き、身体の機能を保つこと。私にとって「歩くこと」は、命をつなぐためのリハビリから始まり、今では自分にとっての最高の美容法にもなっている。健康こそ美なのだ。

 

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『人体600万年史(上):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)
『人体600万年史(下):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)

ファッションのセンスを持つ

インターネットもソーシャルメディアもない時代、ファッション誌の存在は特別だった。作り手たちの育ちや経済的な階層は、誌面にも自然と映し出されていた。

読者モデルには、そうした家庭や、戦後に成功したお宅の血筋の子女が、学校名を出して登場していた。ダブルインカムが全く普通ではなかった時代、お父さん一人の経済力だけで、子どもを小学校や中学校から私立へ通わせる家庭は、特別中の特別だった。私が見てきた範囲では、大企業から中小企業まで、企業オーナーや自営業や文化人のお宅、あるいは、祖父母の代、それ以前から東京とその近郊で暮らしてきた家庭の子どもが多かった。

私が育った東京城西地区の公立学校では、クラスの2割に満たないくらいの女子たちは、中学生のときは「オリーブ」「mcシスター」「ジュニアスタイル」「アンアン」を読み、それらは、その子たちの間で回し読みされていった。高校生になったら、これらをチェックして「JJ」を読み、卒業したら、さらに「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」が加わるコースが王道であった。競合誌もあったけど、当時は、これらが一流誌という位置づけだった。バブル期に創刊された「ヴァンテーヌ」は「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」の前に入るかもしれない。私の場合は高校時代に「ポパイ」と「ホットドッグ・プレス」が加わった。

こうした雑誌文化に触れやすかったのは、出版や流通が首都圏に集中していたからだろう。地方では、同じ雑誌でも発売日や入手のしやすさに差があることを、後に出版社で働くようになってから知った。

令和になった今でも、出版社が作るファッション誌には知性がある。もちろん当時もそうだった。編集部には、雑誌を入口に本へ読者を導こうという考えもあったのだろう。私が山田詠美さんの作品に出会ったのも、マガジンハウスの「オリーブ」に連載されていた『放課後の音符』がきっかけだった。以来、今もずっと大好きな作家で、サイン会にも何度も足を運ぶほど夢中になった。

中学時代から読んでいたファッション誌からは学ぶことがたくさんあった。私は、ファッションセンスは親の影響が半分以上だと考えている。親もその親がいるわけだから、もはや遺伝に近い。そして、親が言葉にしなかったことは、雑誌の写真や文章が教えてくれた。

時間を捧げる、その前に

人さまの会社で働くなら、給料以外にも持ち帰るものがあると思っている。捧げた時間には、あとに残るものを得ないとならない。

就職斡旋業者が書かせるようなメディアには、よく「スキル」という言葉が躍っている。しかし、スキルなどというものは、その時代の空気、その組織の経営者、人事、上長、そして同僚という偶然の組み合わせによって、得られるかどうかが左右される。どこかよその場所へ移ったところで、それが本当に役に立つのかはわからない。だからこそ、雇われる前にあらかじめ知っておいたほうがよいことがある。ここに三つ、書き残しておきたい。これはあくまで、私自身の優先順位である。 

まず、歴史に残ることを仕事にする。歴史は、記録があって初めて歴史となる。わかりやすく言えば、国会図書館に自分の名前が記録物として残る仕事をするということ。薄給である場合が多いとは思う。しかし自分が死んだ後に、子どもや孫、あるいは何代か先の親族が、自分の名前を見つける日が来るかもしれないのだ。そこから彼らが、何かを紡いでくれる可能性がある。

歴史に名を刻めないのであれば、高い給料や報酬を得ることだ。この手の仕事は、社会の屋台骨を支える業種が多いのかもしれない。そして、大きな責任を伴う業種である以上、たくさんのお金をもらわなければ割に合わない。そして生活費や家族にかかるお金以外は、投資や投機に回して資産を増やす。資産そのものは歴史には残らないけれど、その資産をうまく使って、まわりの人たちに役立てる何かができるかもしれない。 

歴史にも残せず、高収入も得られないのであれば、その会社を辞めてからも連絡を取り合える、一生の友人となる同僚や上司、部下を複数得ることだ。お手洗いでよく会ったのがきっかけで、話してみたら馬が合って親しくなった他部署やグループの子会社の人でもいいと思う。思い出の共有とこれからの話ができる人たち。

記録物として名を残せるか、あるいは高収入を得られるか。これらは、あらかじめ実現可能かどうかの見極めがつく。もちろん、そんな計算を頭に入れずに就業することもあるだろう。だが、辞めてからの人脈だけは、入ってみなければわからない。やりたかった仕事、入りたかった業界、働きたかった会社であれば、その可能性はまだある。しかし、妥協して入った会社では、妥協した分だけの結果しか残らない。

大きな企業だと、ジョブローテーションや子会社への出向によって、やりたかった仕事以外を命じられることがある。だからこそ、やはりトータルでその会社を気に入って働かなければ、ただ主人に時間を捧げるだけで終わってしまうのだ。

【お知らせ】2026年8月19日午前0時13分に更新しました。

私が私でいるための、食卓の境界線

このブログは、約5年ぶりに再開した。2021年8月を最後に投稿をやめていたが、本格的な更新をしていた2018年2月までは、自分が15歳で発症した潰瘍性大腸炎(以降、UC)のことや、2016年に再燃したときの闘病などについて書いていた。

UC自体は、極端な肉体疲労と睡眠不足がセットになるとよくない症状が出るものの、おかげさまで今は落ち着いている。つい忘れがちになるが、薬もきちんと服用している。というのも、万が一、入院になったとき、服薬を続けていないと、現場の先生方にも負担をかけてしまうことを、2016年の再燃時によく思い知ったからだ。私は発症から7、8年後以降、およそ20年、自己判断で薬を飲まずに過ごしていた。

UCには食の制限があるとしばしば指摘される。だが、私の主治医は、寛解期であれば「体調を崩さないものなら、何でも食べていい」とおっしゃる。

これまでの人生のほとんどを難病とともに歩んできた私は、長年、自分の体で試行錯誤を重ねた末に、あるルールを作った。このルールに沿ってさえいれば、私は極めて快適に過ごすことができる。もちろん、飲食を軸とした人間関係は狭まる。それでも、こんな私のルールを受け入れ、交遊してくれる人たちが多くいることは、本当にありがたいことだ。

そのルールは一度に書ききれるものではないので、今後少しずつ触れていくつもりだが、基本となるのは次のようなものだ。

あくまで、私の場合ではある。

毎日、水を4リットル以上飲み、海塩を20g以上、タンパク質を50g以上摂る。それから、キャベツと辛味のあるものを除いたアブラナ科の葉野菜などを中心に野菜を300g以上、リノール酸を多く含む油を60gほど。離乳期に最初に食べた穀類とは別の、小麦粉製品を食べるようにしている。逆に、食べないものはたくさんあるし、年に数度しか口にしないものも数多くある。陸にいる哺乳類の肉も、外食でエキスが体内に入ることはあるかもしれないが、自ら進んで食べることはない。

この食卓の話には、まだ続きがある。

【訂正】本文中の野菜の記述に誤りがありました。キャベツと辛味のあるものは食べません。お詫びして訂正します。(2026年8月3日追記)

海を越えた、唯一の救い

2013年に出版社を退職する前後のことだ。ふと、グローバルな視点で考えたとき、「日本語のネイティヴであること」は、一つのスキルになるのではないかと思いついた。

その発想のまま、イギリスの求人サイトを覗いてみた。すると、とある英語圏の企業で、日本語ネイティヴ向けの業務委託の募集があった。海外事情に詳しい友人にその会社のことを知っているか尋ねると「怪しい」と言われた。けれど、すぐに登録し、音声データの書き起こしなどの仕事を引き受けた。当時のその企業は羽振りが良く、単価も現地の通貨でそれなりに支払われた。ただ、仕事は数週間で終わる単発のものが多く、年間の収入はわずかなものだった。

転機は2016年だ。私は長期入院を余儀なくされ、退院後もほぼ介助が必要な生活を送っていた。ようやく歩けるようになり、身の回りのことや家事が少しずつできるようになったものの、働ける状態にはほど遠かった。強いステロイド薬の副作用で、気だけは無駄に大きくなっていた。焦って雇用の仕事を無理やり決めても、体がついていかずに外で倒れ、見ず知らずの人たちに多大な迷惑をかけてしまうこともあった。

もともと、15歳で難病を発症した頃には、自分はもう、社会の厄介者なのではないかと思うようになっていた。そして、日常生活を送れるようになっても、その後も副作用は次々と現れ、働けず、人の手を借りなければ生きられない自分が情けなかった。恐怖と焦燥感に駆られた私は、アメリカにある同じ疾患の団体のサイトへアクセスした。そこなら、病を抱えながらでも国境を越えてできる在宅の仕事の何かしらのパイプや情報があるのではないかと直感した。 

読みは当たった。イギリスの求人サイトで見つけたような、世界中から人材を集めるグローバル企業は他にも存在していたのだ。

私はすがるような思いで登録し、自分に合う仕事を手当たり次第に請け負った。しかし、海外の仕事は甘くない。彼らの基準は厳しい。高い精度を維持しなければ、事前のテストも受からず、プロジェクトが始まってからでも容赦なく切られる。成績が落ちれば即座に契約終了という厳しい洗礼も浴びた。

だが、そのシビアさが逆に私に火をつけた。「もっとコンピュータを、通信の仕組みを深く理解しなければ生き残れない」。それは、2012年に始めたウェブの勉強への情熱が、より実戦的なものへと進化した瞬間だった。

今や、外国の企業が募集する仕事の情報は、日本語でも簡単に手に入る時代になった。パソコン一台で、ドル建ての報酬を得ている人たちも、ひと昔前に比べればはるかに多いだろう。

あの頃、必死に画面にかじりついていた私にとって、海を越えたその仕組みだけが、唯一の救いだった。 

本も新聞も読まない世界へ

出版社を退職してから、いろいろな仕事を経験した。辞めた理由について、今回は書かない。円満退社であり、オーナーを含めて元の会社の人たちとは今も仲が良い。道端でばったり会っても、毎日一緒にいるかのような感覚で、立ち話で盛り上がれる関係だ。

2013年当時、世の中は、そこまでデジタル化は進んでいなかった。ただ、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災を経て、チャットツールやソーシャルメディアが一般化し、時代は混沌としていた。仕事は、おおむね、情報と活字を軸にしたものに携わることになった。団塊ジュニア世代の私が40代に入った頃だ。

業界を出て最も驚いたことの一つは、職場で本と新聞の話がほとんど通じなかったことだ。

本といっても幅は広いから、文芸、社会科学、人文科学、自然科学などの一般書、文庫、新書に限定しておく。専門書と医学書、資格書は含めない。中には、本を読む人たちが集まる業界もあった。ただ、そこは、出版業界と同居しているような業界だったから、同じ家の人とみなすことにする。また、ここでは、「買う」ではなく、「読む」に絞って話を進めたい。

それから、仕事で出会った学者の先生方は例外だった。一般書も含め、それはそれは熱心な読書家ばかりだった。 

何百人と接したわけではないが、隣の席になった人、上長になった人と接する中で、本や新聞を読み、買い、あるいは書店や図書館へ行く行為が、歯磨きと同じくらい当たり前である世界の方が特殊だったのだと、業界を離れて初めて知った。本に囲まれて育った私には、信じがたい現実だった。不思議なことに、古巣を離れて初めて、出版社勤務ではなかったものの、親たちもまた本の仕事に携わっていたのだと気づいた。

その後、何人もの仲間が出版業界を離れた。彼らは口を揃えて「他の業界では、誰も本を読まない」と言った。さらに「未婚だったり子どもがいなかったりするだけで、まるで異端のように見られる」というカルチャーショックを訴える友人もいた。出版業界では、私より少し下の世代から上の世代まで、男女を問わず未婚者や子どものいない既婚者が珍しくなかった。しかし、一歩外へ出ると、それは当たり前ではない。そのギャップに耐えかねて、結局また業界に戻っていく営業や編集者がいた。中には心身の不調を抱える人もいた。私自身、その手前の状態になった。それでも、他業界で習得したいことがあった。

長く続く出版社・取次・書店の構造的問題、以前からの出版不況、インターネットの普及に伴う情報アクセスの容易化、そしてソーシャルネットワークの台頭により、本や新聞が読まれなくなったと言われる。しかし、私は業界の外へ出て、「もともと読まない人の方が多かったのではないか」と考えるようになった。

衝撃はあったものの、業界を移動したことで視野は少しだけ広くなった。愛すべき業界を俯瞰することもできた。さらに、私たちの日常を支える社会のインフラがあることも知った。

出版業界に近い業界で働く知人がいる。子育てをきっかけに親同士の付き合いが始まり、それまで接点のなかった人たちと関わるようになったという。「いかに自分が狭い世界で経済活動をし、友人関係を築いてきたかがわかった」と話していた。

学生時代までに知り合い、連続性のあるかたちで付き合いがある友人や知人、その延長で知り合った人たち、ご近所コミュニティの場合は、本も新聞も読まなくても違和感はない。彼らの中には、エリートサラリーマンもいれば、芸術家や芸能の世界で活躍する人もいる。戸惑うのは、本を読まない人たちが集まる利害関係の経済活動の場なのである。

もし出版の世界から別の業界へ移り、新たな利害関係の中で仕事をするのなら、自分が当たり前だと思っていた世界は、決して世間の標準ではない、と知っておいた方がいい。他の世界で「浦島太郎」にならないために。

私もそのカルチャーショックで、ひどく落ち込む時期があった。しかし、ある種の割り切り方と、新しい働き方の軸(海外企業の仕事など)を見つけたことで、外の世界でも自分の言葉をすり減らさずに生きられるようになった。その具体的な処世術については、また追って詳しく書いていく。ただ、活字媒体企業に直接雇われている正社員や契約社員、嘱託などの40代半ば以上の人に向けて、これだけは先に書いておきたい。

まず、いまだに面食らうのは、「編集」と「営業」という言葉の意味である。古巣の出版業界での意味は、他業界では必ずしも通用しない。就職斡旋業者でも、「編集」と「営業」の意味が、業界ごとに異なることを理解しておらず、企業・斡旋業者・求職者の三者で認識が食い違い、ミスマッチにつながる場面を私は経験したことがある。

次に、他業界では、TeamsやSlackなどの業務チャットを、口頭で会話するのと同じ感覚で使って仕事を進めている。業務の流れそのものがチャットを中心に回る会社も少なくない。また、業務チャット内での絵文字(あいさつ代わりのリアクションなど)の文脈や、カタカナビジネス英語がごく自然に使われている。

新型コロナ禍を経てチャットツールを導入した企業が増えたとはいえ、本格的な活用は経営者の判断に委ねられているのが実情だろう。一社員の立場ではどうにもならないこともあるかもしれないが、今のうちから慣れておいた方がいい。

それから、活字媒体企業は、社内のメールやチャットで「さま」を使い、用件は2~3文、長くても5文でまとめることが多いはずだ。朝日新聞記者の近藤康太郎さんの『三行で撃つ』という、近年における名著があるが、このタイトル通りの世界だ。一方、他業界は「さん」を使う。出版業界を離れた友人は、「さん」と呼び、「さん」と呼ばれることが、踏み絵を踏まされる気持ちになると言っていた。私にも、その気持ちはよくわかる。

「さま」の使用については、以前、出版社や新聞社あわせて20社ほどの人たちに、社内で「さま」を使うのか「さん」を使うのかを尋ねたことがある。聞いた範囲では、全員が「さま」と答えた。もちろん、出版社は数千社あり、新聞社も全国紙、地方紙、専門紙まであるため、すべての会社や部署について確認したわけではない。最近はフラット化の流れで「さん」を使う会社もあると聞く。それでも私が知る限りでは、「さま」が標準のようだ。

外の世界は広い。ただ、備えがあれば、渡れる海でもある。

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本記で触れた朝日新聞記者の近藤康太郎さんの著書はこちらです。
『三行で撃つ:〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

彼らの売り上げ、こちらの日銭

前日の記事で、就職斡旋業者との押し問答について書いた。あの担当者は、なぜ現場とのミスマッチを恐れず、「やる気」を免罪符のように口にしたのか。その理由を考えているうちに、一つの構造が見えてきた。 

誠実な担当者はいる。しかし、企業という組織は、利益を上げる仕組みで動く。登録者の経歴を商品として扱い、市場に並べる私が接した複数の担当者は、まず直近の職歴を見ると話していた。その人が新卒で入った会社で何を学び、どんな力を培ったか。履歴書や職務経歴書の下のほうに追いやられてしまう、人間の根っこにある歴史は、最初のフィルタリングでは見落とされがちだ。

加えて、紹介手数料は一般的に成約時の想定年収に比例する。つまり、高く売れる経歴を持つ商品ほど、業者にとっての貢献度が高い案件となる。 ここに、現場のミスマッチの可能性があっても「まずは面談にかせ、何が何でも押し込もうとする」担当者が生まれる構造がある。少なくとも、前述の担当者とのやり取りでは、求職者の生活より数字が優先されているように見えた。 

仲介利益が生まれる構図を見ていると、宮尾登美子の小説や、今村昌平、五社英雄らの映画に描かれた世界を思い出す。現代は建前上、人権が守られた社会ではあるが、人が取引の対象として扱われる構図は、芸術が描いた世界と地続きのようにも思えてしまう。

とはいえ、担当者個人を責めることもできない。彼らにも日々の暮らしがある。

広告代理店が、時代の空気をつくる仕事だとするならば、現代の企業の血の巡りを握っているのは、データを持つ斡旋業者なのかもしれない。広告代理店はたびたび批判の対象になるが、斡旋業者の構造そのものは、あまり語られない。労働市場が合理化される一方で、人を見る目はますます数字に寄っていったようにも思う。 

彼らには彼らの売り上げがある。そして、こちらには今日を生きるための日銭がある。二つは、同じ「仕事」でも、違う方向を向いている。

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