前日の記事で、就職斡旋業者との押し問答について書いた。あの担当者は、なぜ現場とのミスマッチを恐れず、「やる気」を免罪符のように口にしたのか。その理由を考えているうちに、一つの構造が見えてきた。 

誠実な担当者はいる。しかし、企業という組織は、利益を上げる仕組みで動く。登録者の経歴を商品として扱い、市場に並べる私が接した複数の担当者は、まず直近の職歴を見ると話していた。その人が新卒で入った会社で何を学び、どんな力を培ったか。履歴書や職務経歴書の下のほうに追いやられてしまう、人間の根っこにある歴史は、最初のフィルタリングでは見落とされがちだ。

加えて、紹介手数料は一般的に成約時の想定年収に比例する。つまり、高く売れる経歴を持つ商品ほど、業者にとっての貢献度が高い案件となる。 ここに、現場のミスマッチの可能性があっても「まずは面談にかせ、何が何でも押し込もうとする」担当者が生まれる構造がある。少なくとも、前述の担当者とのやり取りでは、求職者の生活より数字が優先されているように見えた。 

仲介利益が生まれる構図を見ていると、宮尾登美子の小説や、今村昌平、五社英雄らの映画に描かれた世界を思い出す。現代は建前上、人権が守られた社会ではあるが、人が取引の対象として扱われる構図は、芸術が描いた世界と地続きのようにも思えてしまう。

とはいえ、担当者個人を責めることもできない。彼らにも日々の暮らしがある。

広告代理店が、時代の空気をつくる仕事だとするならば、現代の企業の血の巡りを握っているのは、データを持つ斡旋業者なのかもしれない。広告代理店はたびたび批判の対象になるが、斡旋業者の構造そのものは、あまり語られない。労働市場が合理化される一方で、人を見る目はますます数字に寄っていったようにも思う。 

彼らには彼らの売り上げがある。そして、こちらには今日を生きるための日銭がある。二つは、同じ「仕事」でも、違う方向を向いている。