元気に長生きする。そう決めて、生きている。
2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。
ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。
赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。
異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。
私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。
後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。
発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。
それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。
7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。
地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。
そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。
不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。
その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。
そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。
だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。
出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。
だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。
