外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。
私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。
だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。
世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。
これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。
日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。
一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。
食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。
そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。
私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。
UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。
鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。
ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。
お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。
食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。
自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。
