出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

月: 2026年8月 (1ページ目 (2ページ中))

塩だけで、しみる

私の場合、口にする食材が限られている。味付けは海塩か岩塩だけ、という場合が多い。外食を除き、胡椒も使わない。

昔、市ヶ谷左内町のビストロを友人が予約してくれたことがある。今ほど食事のルールは厳密ではなかったが、哺乳類の肉やほうれん草、キャベツ、芋類を食べない旨を、あらかじめ伝えてもらった。 

到着すると、名物のマダムが言った。「限られたもので作るのは、クリエイティヴなんですよ」。その言葉は、今も覚えている。

お店は、今はもうない。

10年前、潰瘍性大腸炎(以降、UC)の再燃で長期入院した。15歳で発症して以来、初めての再燃だった。

点滴と絶食のあと、脂質を抑えた刻み食が続いた。院内にあったレシピ本や食のエッセイを読みながら、次に自分が口にできそうな食材を探し、退院後の食事を考えた。

ノートには、パスタのレシピが並ぶ。小松菜や水菜を中心に、ソースを変えた料理を考え、絵まで添えていた。

毎日ひもじかった。食べることへの欲求で、頭がいっぱいだった。

今は、使える食材が少ないことを、それほど不自由には思わない。

タイ料理の刺激が恋しくなり、暑くなると必ずやってしまうことがある。使い切りのチリソースを買うのだが、体内に入れると、UCの合併症が出る。やめよう、と決めるが、また翌年にやってしまう。

どうしても食べたければ、外で、人と一緒に食べればいいのである。香辛料は、人と人をつなぐ橋渡しのような役目を果たしているのだから。

家では、塩でいい。

適当に決めていた塩加減にも、どうやら根拠があるらしい。勝間和代さんが提唱する、調理するときの塩分量は、私が適当に入れてきた量とだいたい重なっている。

とはいえ、私の料理を食べたことのある身近な人は、「パンチがない」「味気ない」と言う。それでも、自分で決める塩加減には満足している。

塩だけの味付けが、しみるのである。

棚の先入観

今年の夏は体力を温存するため、日課である5キロの歩行のペースを落としている。多忙も重なっている。

ウォーキングは、生活の中に組み込んでいる。その昔、ミレイユ・ジュリアーノ著『フランス人はなぜ好きなものを食べて太らないのか』(日経BP/日本経済新聞出版)を読んだことも大きい。フランス人はこまめに歩くという。家で仕事をする人たちからは、「どうやったらそんなに歩けるのか」と聞かれることがある。

私の場合は、単に、小松菜を安く手に入れるために歩くのである。町を歩き回って品定めをしていれば、歩数は稼げる。

食材を買う店は、八百屋2店を含めて11軒ある。もちろん、一日にすべてを回るわけではない。魚介、バター、ヨーグルト、木の実など、買うものによって店を使い分ける。野菜は、その日の値段と品物を見る。鳥肉の入手方法については、いつか書きたい。

頭の中には、食材と店を結ぶ地図がある。

その中には、世間で高級と呼ばれるスーパーも入っている。高いからと素通りする人もいるが、棚を見ないのはもったいない。

私は海塩を買うとき、平釜で作られたものを選ぶ。この条件で探すと、ある高級スーパーで扱っている商品が選択肢に入る。パルメザンチーズもそうだ。塩だけで加工した鮭の瓶詰め、魚のアラ、ぶどう油、高タンパクのパスタも、ここが町で一番お得だ。私が、パスタを選ぶ基準は、タンパク質の量である。

刺身は、もう一つの高級スーパーが、安いことがある。魚屋発祥で有名なスーパーよりもである。それから、私の基準に合う卵が安く売られている。夕方になると、農家から届いた野菜に値引きの札がつく。今年の夏はあまり見かけないが、通常は、ここで小松菜を買う。八百屋よりも、全国最大規模系列のスーパーより安く、味が濃い。

東京で生まれ育ってきたので、この二つの高級スーパーの変遷も見てきた。一つは、都市部から離れた学園町で生まれた商店である。私が学生の頃は、まだその名残があった。もう一つは、庶民の憧れかのように打ち出された「文化生活」の象徴、団地などの集合住宅の一角に店を構えていた。

店の看板と、棚の値段は別物なのである。

太陽礼拝のポーズだけの日

ヨガとストレッチは、毎日やる。20年くらいやっている。 

朝、掃除が終わった後、ヨガマットを敷く。塩水と、梅干し入りの緑茶だけを体にいれた状態で行う。太陽礼拝のポーズだけの日もある。

数分でもいろいろできる。短いようでいて、体を動かしてみると、意外と充実している。そして、時間があるなら、もっとやっていたい。15分でも30分でも。その後に、マッサージができたら最高である。

私は、あおむけになり、両手をグーに握り、背中に手を入れ、背骨の両側を、届くところまで、ぐりぐりと刺激するのが大好き。周りに聞いても、意外と皆、これをやっていて、気持がよくて、止まらないという。お金をだして人にやってもらうよりも満足すると。これを、毎日できたら幸せというのではないだろうか。

以前、ジェニファー・ロペス(J.Lo)がヨガマットの上で体を動かしている映像を見たことがある。アレックス・ロドリゲスと交際していた頃だ。実業家でもある彼女は、ヨガウェアのブランドに関わっていた。

その映像で、J.Loは、難しいポーズを次々と決めていたわけではなかった。体の表面と裏面を、まんべんなく動かしているように見えた。撮影用だったのかもしれないし、実際の運動の一部だったのかもしれないが。

ヨガというと、教室へ行き、決められた時間の中で一連のポーズをするもののように考えてしまう。でも家なら、往復の時間もないし、着替えの時間もないし、周りの皆さんに合わせなくてよい。ある程度通った人だったら、できることである。

片岡鶴太郎は夜の11時に起き、ヨガを始めるという。からだに時間をかけられることへの、ある種の憧れはある。

私は、その身分ではないから、時間はかけられない。それでも、からだが動くうちは、1ポーズだけでもよいので、動かしていく。

大人の事情、タンパク質の値段

今年に入って、アメリカの保健当局が「Eat Real Food(本物の食べ物を食べよう)」という食の指針を打ち出しているのを知った。炭水化物や加工食品に偏らず、タンパク質や野菜を中心にという内容だ。

私の食事ルールと合致しているかはさておき、人類が、タンパク質を追い求めて生きてきたことを思えば、理解できる。

スーパーの棚に並べられている食品は、人間の栄養摂取のためではなく、企業のために存在する。海外から入ってくる食材にも、国同士の事情がある。その中から、生き延びるための栄養を買うには、それなりの用意が要る。私の場合は、食材を買うとき、タンパク質100グラムあたりの値段を考える。

世間では、大豆製品がタンパク源だともてはやされているが、私は、大豆製品を贅沢品だと思っている。もし、なんでも食べられるからだであったなら、牛や豚といった栄養価の高い哺乳類の肉、チーズを買う。そのほうが、タンパク質の量と値段を比べたとき、安い場合があるからだ。

パスタもそうだ。デュラムセモリナ粉は、米よりもタンパク質の含有量が高い。炭水化物、と一括りにしていると、栄養が見えづらい。

栄養については、文部科学省の「食品成分データベース」で見ることが多い。検索してもいいけど、たいてい国が発表した数字をもとにしている。

私は、水を飲み、塩分やタンパク質、決めた野菜を摂るというルールを続けている。陸の哺乳類の肉は口にしない。だが、見返りはある。食事の内容を変え、塩分やタンパク質を多めにしてから、十代前半以降の日中の強い眠気にも変化があった。

かつての私がそうだったように、心身が満たされていないとき、人は酩酊を求める。酒を飲み、その酔いを共有するために誰かと一緒にいたがる。それから、人によっては糖質。私はお酒をほとんど飲まないが、小麦粉製品に走ることがある。タンパク質が足りていない時に多い。

人間は、栄養と睡眠、そして排泄が確保されていると、穏やかになるのではないか。

食は大切なのである。

ネクラの食卓と菜っ葉

社会との接点について、考えることがある。

ここでいう社会とは、仕事で関わる人や、親しい友人や仲間、家族のことではない。いわゆる世間一般と呼ばれるもののことだ。

人々を観察していると、どんなにマニアックな趣味を持っていても、浮世離れしていても、大衆との接点があるだけで、普通の人に見える。ラーメンが好きだとか、人気の芸能人に詳しいとか、そういうものだ。あと飲酒するかどうか。私には、何があるだろう。

ラーメンは、牛肉も豚肉も食べないので、口にすることはない。たまに中華麺を買い、鶏から取ったスープで食べることはあるが、数年に1回くらいだ。世間のラーメンブームとは、縁がない。柚木麻子の『BUTTER』に出てくる「バターましまし」なラーメンも、私流に作ってはみたいが、この話、わかってくれる方いるだろうか。

細木数子がテレビに出なくなってから、NHKしか見る用事がなくなり、テレビ離れが始まった。それ以降に出てきたらしい芸能人は、ヤフーニュースの見出しにある、名前という文字でしかわからなくなっている。

私が子どもの頃からいろいろ言われていた人だった。しかし、核家族で育った私には、知恵のある、まともな年配者にしか感じなかった。何がよかったかといえば、料理だった。手つきを見れば、普段からやっている人だとわかった。細木数子が出ている番組は、おもしろかった。

テレビの世界には台本があることは、それ以前から聞いていた。

音楽はヒップホップを軸に、過去を振り向くかたちになっている。昔、聞いていたものを聞いている。新しいものは、デトロイトの人たちしか追いかけていない。偏っている。その前に、ヒップホップは主流になったようで、そうではない。

映画は、女優さんの美しい発音の日本語が聞ける昔の映画や、単館系と呼ばれていたような作品を選ぶことが多い。本は、世間で話題の自己啓発本は、資料以外では手に取らない。私が読むものは、社会科学や人文科学、小説だ。

スーパーで買える、私が食べられる素材の加工品や、日用品でも、「いい」と思ったものは、廃番になったり、店頭から消えたりする。買う人が、少ないのだろう。

その上、偏食だ。陸にいる哺乳類の肉は食べない。米を食べるのは、年に数回。いつも食べるものは、キャベツを除くアブラナ科の菜っ葉、鶏、魚介、乳製品、大豆製品、木の実である。

緑茶とコーヒーは毎日飲むが、自分だけのこだわりがあるだけで、人に言うようなものでもない。お酒はほぼ飲まない。10年以上前に、考えがあってやめた。

ここまで考えて、気がついたことがある。私にも、世間との接点があった。

小松菜である。アブラナ科の菜っ葉だ。

小松菜なら、たいていのスーパーにある。「小松菜をよく食べる」と言えば、誰にでも通じる。プライベートの世界では、「小松菜の人」と認識されてはいる。

小松菜はぬか漬けにしたり、「公園の父」といわれる本多静六にならいホルモン漬けにしたりする。鶏や魚介と炒めることも時々ある。

昔、ジャズが好きなタモリが「ネクラ」という言葉を使っていた。ジャズとタモリとネクラ。この三つは、私の中では、しっくりくる。ラーメンを食べ歩かなくても、芸能人を知らなくても、非主流派も生きていける。

そして私には、小松菜がある。

十年前の刻み食と、最古の祈り(二/全二回)

十年前の刻み食と、最古の祈り(一/全二回)からの続きです。

入院する何年か前、イギリスの進化人類学者ロビン・ダンバーについて書かれた何かのアートか科学の記事で、「女性の最古の職業はシャーマンだった」という説を読んだ。その時は、「女性の最古の職業は売春婦」ではないのだな、と思った程度だった。

ところが、入院して、いつも食べ物のことを考える日々を送っているうちに、その話が腑に落ちた。

食を得られるかどうかは、天候に大きく左右される。現代ですらそうだ。大昔の人々なら、生きるために必死で祈ったはずである。その祈りを司る人が特別扱いされたとしても、不思議ではない。食べられなければ、何も始まらない。

そんなことを考えていた私は、飢えた身体で、今度は「何かを作りたい」という欲求をノートにぶつけていた。絵を描いていた。これも、食の次に出てきた欲だったのかもしれない。

そして、身体が元気になってくると、もう一つの欲が出てきた。

噛みたかった。

刻み食をありがたくいただきながら、歯と顎は別のものを欲しはじめた。レタスが食べたい。わかめを噛み締めたい。この時に、自分はレタスが好きだということに気がついた。

退院が決まってから、院内のリハビリに通った。筋力は80代よりもないと言われた。身の回りのお世話をしてくださる職員の方からは、「退院してからがスタートですよ」と声をかけられた。

その言葉の本当の意味がわかったのは、家に着いてからだった。病院では車いすで移動していた人間が、これからは自分の足で歩かなければならない。

帰宅する前から、母にはレタスとわかめを用意しておいてほしいと頼んでいた。やめたほうがいいんじゃないの、と言われたが、どうしても食べたかった。退院した日だったか、そのすぐ後だったかは、もう覚えていない。

ボウル一杯のレタスとわかめ。何をかけて食べたのかも覚えていない。シャキシャキ、ザクザクと、音がした。自分の歯で葉を噛み切り、顎を動かして、レタスとわかめを噛み締める。刻み食にするのは自分の顎と歯である。本当においしかった。

今も、小松菜や水菜を中心にしながら、レタス類も食べている。

食べ物には、味や栄養だけではないものがあるのだと思う。歯を使う。顎を動かす。葉や海藻を噛み切る。口の中で小さくして、飲み込む。

ボウル一杯の葉野菜を噛む時、噛めるうちは、噛んでいたいと思うのだった。

十年前の刻み食と、最古の祈り(一/全二回)

私は毎日、葉野菜をたくさん食べる。その中でも、アブラナ科の小松菜や水菜をよく選ぶ。本当に空腹のときにいただく野菜は、おいしい。とはいえ、それらは好物ではない。好きなのはレタス類だ。

10年前、潰瘍性大腸炎(UC)が再燃し、45日間入院した。

前半を過ごした地元の病院では、消化がよいとされる、とろみのついた甘い入院食が出ていた。私は15歳でUCを発症した少し後から、ときどき身体におかしな症状が出るようになっていた。自分なりの対処法を編み出し、長いことそれでしのいでいたが、この入院中にも頻繁に起きた。食事が原因であることは明らかだった。退院後に検査を受け、のちに反応性低血糖症だとわかった。

入院中、栄養士さんに会ったとき、食事をどうにかできないかと尋ねた。しかし、予算内に収めることが一番大切なのです、とずばり言われた。患者の体調は考えないのですかと聞いたら、無言になってしまった。

職務としては極めて正しくやっているから、仕事ができる人だ。優秀だ。私が食べない哺乳類の肉を避けてくれていたことだけは救いだった。

後半に転院した大学病院では、食事が一転した。流動食の期間を経て出されたのは、パンと、何もかもが細かく刻まれた「刻み食」だった。

お膳が運ばれてくるたび、私は感動した。とにかくおいしく、美しい。そして、食べられるものが限られている私のために、これほど気を配ってもらえる。そのこともありがたく、食事について書くメモには、いつも「ありがとうございました」と書き添えた。

退院間際、栄養士さんが言った。私たちも工夫して作ることがすごく楽しかったです、と。食べられないものが多い、めんどうな患者の食事を毎日用意するのは、どれほど手がかかり、大変だったことか。

転院して2日目には症状も落ち着いていた。入院中、私は、手書きで記録をつけていた。何時何分に誰がベッドに来たか。職員さん、看護師さん、先生。そのときの気持ち。すべてをボールペンで書き残した。

妹の勧めでもあった。それに当時は、携帯端末につなぐと心臓がドキーンとして、身体がおかしくなることがあった。手書きは正解だった。

入院中は、いつもひもじかった。頭の中は食べ物のことばかりだった。

のちに、坂本龍一が、最初の入院中、食べることばかりを考えていたと何かで読んだ覚えがある。病の種類も状況も違う。それでも、食べることを制限された人間の頭が食べ物でいっぱいになることには、よくわかるところがあった。

人は、食べなければ始まらない。


【お知らせ】2026年8月25日午前8時18分更新しました。

知の平等と、言葉の覇権(二/全二回)

知の平等と、言葉の覇権(一/全二回)からの続きです。

8年前、Google Books Ngram Viewerを知ったとき、思ったことがあった。

国会図書館のある国であること。その国会図書館がオンラインの利用手続きを受け付けていること。端末を持っているか、持っていなくても利用できる場所、たとえば公共図書館やインターネットカフェなどに行けること。そして、端末を使いこなせること。前提はある。

世の中のすべての書物がデータ化される日が来るのだとすれば、人間社会はいくらか平等に近づくのではないか、と私は考えた。平等とは、フラットな世界ではない。情報はいつの時代も、上から下へとしか流れない。下にいる者は取りに行くしかない。でも、取りに行くには、足かお金が必要だ。両方の場合もある。

デジタル化された書物にアクセスできるならば、足やお金に頼らず、到達できる。足かお金を使わないことが、ここでの平等だ。繰り返すが、情報は上から下へ流れる。ウェブの情報の大元をたどれば、結局は記録物、つまり図書館に行き着く。

実際のNgramには、いまだに日本語が入っていない。英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、ヘブライ語など、他の多くの言語は対応しているのに、日本語はない。企業秘密だから知る必要もないし、ユーザーには関係のない話だと言われれば、それまでかもしれない。

でも、これは大きな話だと思う。日本語という言語がそこに含まれていないということは、AIの思考の根本が、対応している主要言語、つまり、西洋と中国の思想や価値観に強く引っ張られていくのではないか、という懸念がある。

出版社を退職してからの私は、AIプロジェクトの裏側に関わっている。10年以上になる。海外の大手テック企業の下請け仕事では、募集要項に「Linguistics(言語学)の学位」が書かれているのを何度も見てきた。私にその学位はない。そして、Pythonすらも書けない。

できることが限られる中、活字の業界にいた者として、AIという言葉が市民権を得る前に、その現場に潜り込み、さまざまな仕事をしてきた。今、多くの人が名前を知っている生成AIが、世の中に姿を現す前からのことだ。

そこで見えてきたのは、言葉と、その言葉が背負っている思想の、目には見えない引っ張り合いだ。

ただ、これで終わりというわけでもないらしい。

この度、知ったのだが、国立国会図書館が2022年、独自に「NDL Ngram Viewer」という日本語版を公開していた。公開当初は、著作権保護期間が終わった図書資料、約28万点分のテキストを使った実験サービスだったという。

Googleの巨大な仕組みの外側で、地道にデータを積み上げていた場所が、きちんとあったのだ。この作業の始まりから公開までに関わった方々には感謝しかない。

国会図書館は、やはり国の知を守る場所なのだと思う。

 

Google Ngram Viewer:
https://books.google.com/ngrams

NDL Ngram Viewer:
https://lab.ndl.go.jp/ngramviewer/

 

【お知らせ】2026年8月24日午後9時7分に更新しました。

知の平等と、言葉の覇権(一/全二回)

先日、あるニュースが話題になっていた。AI企業が、古い書物を大量に買い集め、スキャンして学習データにしているという記事だ。

世間は驚いていたようだが、私は、「そうかそうか」という気持ちだった。

実は、私のところにも似た仕事のオファーが、過去に2回来たことがある。古書や希少本をスキャンして学習データにする、という内容だった。結局、どちらも立ち消えになったが、彼らはとっくに嗅ぎつけていたのだと思う。本当に価値のある知は、インターネットの表面にはなく、神保町や、全国の昔ながらの古書店の棚に眠っていることを。

Geminiに向かって、「神保町の古本、全部買い漁ってスキャンして学習しなさいよ」と、怒っていたことがある。まだBardと呼ばれていた頃だったかもしれない。

このニュースを読んで、あるものを思い出した。下書きに戻した古いブログの投稿を探してみると、出てきた。2018年12月2日にミネルヴァ書房の『はじめて学ぶ方言学』を紹介していた。

当時の私は「ヤポネシアゲノム」という研究チームのプロジェクトに夢中で、参加している先生方の本を片っ端から読み漁っていた。今でも、斎藤成也先生をはじめとする、ほかの先生方の新刊を心待ちにしている。

読んだ中の一冊、木部暢子先生らの編著書で出会ったのが、「Google Book Ngram Viewer」だった。西暦1500年代から現在までの、言葉の流行りすたりをグラフで見られる機能だ。

西暦1500年代からという区切りを見るたび、私はグーテンベルクの活版印刷を思う。人間の言葉が大量に複製され、「記録」として積み重なっていく時代の始まりと、どこか重なって見える。

言語学という学問への薄い関心は、もっと昔からあった。受験生の頃に通っていた新宿にある塾の先生が、東京教育大学でそれを修めた人だった。先生は、英語をユーモアたっぷりに教える天才で、英語表現を日本語に置き換える独特の覚え方は、いつの間にか他の予備校でも使われるほど広まっていた。インターネットで検索すると、今も現役で教えられているようでうれしい。

Google Ngram Viewer:
https://books.google.com/ngrams

 

【お知らせ】2026年8月24日午後9時3分に更新しました。

縮める、選ぶ、渡す

ブログを再開してから、Xも2年ぶりに復活し、8月9日からは、投稿の紹介をするようになった。

記事を公開したら、URLを貼って終わり、というわけにはいかない。まず、その日の投稿をどう紹介するかを考える。長く書いた文章を、ほんの数行に縮める。

この作業では、AIの手を借りることもある。原稿を渡して、X用の短い文章を作ってもらう。だが、結局、一から自分で書き始めてしまう。AIには新聞の短信的な要約をしてもらいたいのだが、なかなか伝わらない。

朝日新聞が、自動要約生成API「TSUNA」という、すばらしいサーヴィスを提供している。商用利用はできないため、このブログ関連では控えている。

投稿の紹介をする前には、Googleアラートを見る。

最近、Xで紹介する情報を探すために新しく設定したキーワードもあるが、Googleアラート自体は何年も前から使っている。潰瘍性大腸炎(UC)、黒人文学、それから、未来について考えてきた人たちにまつわる言葉などを登録している。

私は、肩書や専門分野とは関係なく、その後の社会や技術、暮らしを考えるうえで気になる人たちを、勝手に「未来学者」とカテゴライズしている。アルヴィン・トフラー、アラン・チューリング、マーシャル・マクルーハン、レイ・カーツワイルなどだ。

今回、リストを見て、この顔ぶれの中では若手のユヴァル・ノア・ハラリも加えた。

届いたアラートをすべて読むわけではない。まず見出しを確認し、気になるものがあれば読む。その中から、人にも知らせたいと思ったものがあれば選ぶ。こちらはコメントをつけず、そのまま投稿することにしている。

外から見れば、ブログの記事を一つ紹介し、気になった情報をいくつか流しているだけだ。

ある日は、その作業に25分かかった。毎日どのくらい時間を使っているのだろうと思い、時間を記録しているToggl Trackを確認してみた。

だいたい30分前後だった。たった数本を投稿するための時間である。

自分が書いたものから何を残すか。届いた情報から何を読むか。そして、その中から何を人に渡すかを決める。

小さな編集作業である。

食卓を小さくした夏

私は偏食である。ただし、この偏食も何十年もかけて作ってきたものだ。

毎日水を4リットル以上飲み、海塩をたっぷりとる。アブラナ科の葉野菜を中心に野菜を300g以上、タンパク質を50g以上とり、陸生哺乳類の肉は、外食でエキスとして口にする以外は食べない。細かいルールはほかにもある。 

試行錯誤しながら調理するのも楽しく、それが人生になっているところはあるのだが、この夏は多忙で、栄養をとることだけを考えて過ごしている。

行き着いたのは、一日一食と生乳ヨーグルトだ。夜の一食だけはしっかり食べ、それ以外の時間は生乳ヨーグルトで過ごす。

15歳から罹患している潰瘍性大腸炎(UC)とは別に、合わないものを食べると腹痛が起きることがあるが、生乳ヨーグルトは大丈夫だ。バターとチーズの次に馴染んでいる乳製品であり、どこにでも売っている。それに、歯磨きも歯ブラシだけで済む。 

それから、砂糖を摂らない私にとっては、甘みを感じられる食べ物でもある。400gパックを一日に二つ平らげる日もある。これだけで、毎日の生活は軽やかになった。火を使う調理は夜の一回で済む。生乳ヨーグルトは、出先でも簡単に手に入り、ちょっとしたスペースさえあれば食べられる。

調理の手間を省く工夫は他にもある。鶏ひき肉や貝はすぐに火が通る。それから、刺身もいい。小松菜は、細かく切って、あらかじめ塩をふっておいて、食べる直前に洗うだけ。ほかの野菜は、ぬか床に放り込んでおけば、それだけで一品にもなる。油は、たっぷりかける。そして、チーズを添える。ピータンのこともある。

時間が生まれた。

おやつには、家にいる限りは、バターを食べる。これは30年以上前からの習慣だ。今は、一日90gほどをとる。

この忙しい時期を抜けたら、また大好きなパスタを茹でる日々に戻るだろう。だが、究極まで削ぎ落としたこの食生活の中で、気づいたことがある。

人間は、必要な栄養さえ過不足なく満たされていれば、だいたいのことは満足できるようにできているのではないか。世の中の人がみな、十分な栄養と睡眠をとれていれば、世界はもっと平和に回る気がしてならない。

UCの私の場合は、タンパク質を70〜75gをとると力がみなぎる。食べる回数を減らし、中身をミニマムに絞り込んでも、この必要量だけは割らないようにしている。

一年後に効く一言

話したところで、今の迷いや戸惑いは伝わらないだろうと、自分の内側にだけしまってしまうことは誰にでもあると思う。私の場合は、毎朝の手書き日記にぐちぐちと書くが、解決できないことも多い。

人さまの仕事でのやり取り、画面の向こうで行き交うモヤモヤ、同じ場にいない人に説明することは難しいし、人に話したところで、いやな気持が2倍くらいにふくらむこともあるだろうし、守秘義務があって、どんなに近しい人にも話せない場合もある。

しかし、そんな話を、いつもの友達ではない人にしてみるのも悪くない。

たとえば、友達の友達くらいの関係の人に、流れでその話をすると、いい意見が聞けることがある。初対面のわりに失礼な本音である。

それから、飲酒をほぼしないが、酒場には行くので、いろいろ話が聞ける。

親しい人たちが集まる、その場にいたある職人気質の年配の中小企業経営者の男性に、以前、変な会社に関わろうとしていた時期の話をしたことがある。その人は、ひとこと、「その出だしが変なら、もう変だよ」と言った。それだけだった。だが、後になって振り返れば、まさにその通りだった。

あとは、今のようなデジタルでのやり取りが当たり前になった働き方を知らない世代の人たちだ。子どもの頃から知っている小母さんや、我が親もそうである。

我々団塊ジュニア世代は、もちろんそうではない時代も知っているからこそ、モヤモヤや怒りが生まれる。でも、少し話すと、「今はそういう時代かもしれないけれど、それはおかしい」と言ってくれることがある。それから「あなたが考えていることとは別の理由で、それが起きているのでは」と、同世代前後の近しい人たちとは異なる視点から一言をもらうこともある。

そのときの、非礼、同調、違う見方。話したときは、状況平行線であっても、一週間、一年、数年たって、その一言がようやく効いてくることがある。そして、 行動移せることがある。

ピントの合う場所

中学生のころから視力が落ち始めた。父の血を受け継いだのだろう。

めがねを買うことになった。

当時のめがねは、高価だった。消費税がなかった時代である。近視と乱視の入ったレンズとフレームで、7万円近くしたはずだ。ただでさえ高いのに、アランミクリのような、ファッション誌に出てくる高級メーカーのものを親にねだれるわけがない。近所のめがね屋でこしらえためがねは、全くかわいくなかった。

めがねをかけるとよく見えるが、学校ではなるべくかけないようにしていた。かわいくないものをかけるのは恥ずかしかった。しかし、黒板を見る時などに、どうしてもめがねが必要になる場面があった。

20代からはソフトコンタクトレンズを使うようになった。目にアレルギーが出やすいため、使い捨てのものに変えた。視力はみるみる落ちていき、30代に入る頃には、0.1を切っていたと思う。コンタクトも高かった。

私の半生は、めがねやコンタクトレンズという、見えるための道具と常に隣り合わせだった。

一方で、世の中には、ずっと視力がいい、という人たちがたくさんいる。ところが、そんな彼らも40代半ばを過ぎたあたりから、「見えない、見えない」と騒ぎ始めた。40代のうちに老眼鏡を手に入れる人いる。

今や見事に、周りの皆が老眼鏡を持っている。おもしろいなあと思って観察していると、これまでめがねに無縁だった人ほど、ちょっと自慢げにかける。おしゃれで立派なケースから、ぎょうぎょうしく取り出し、知的な自分に酔っているような仕草を見せる人もいる。

私自身は、3、4年前から手元が怪しくなってきた。それでも、これまで通り、使い捨てコンタクトと、近視と乱視のめがねの併用でやり過ごしていた。

しかし、昨年の夏のある日。ガクンと来た。

本当に、ピントが合わなくなってしまった。日銭を稼ぐための仕事の画面がぼやけ、はっきりと支障が出始めた。これはまずい。すぐ、チェーン店のめがね屋に駆け込んだ。

店頭で20個ほどのフレームをかけさせてもらい、一番しっくりくるものを選んだ。裸眼用と、コンタクトレンズ用の2種類の老眼鏡を買った。

快適になった。

裸眼用の老眼鏡は、手元から視線を外すたびに、いちいちかけ直したり外したりしなければならない。でも、見えれば、それでいい。

くっきりと文字を追えるだけで、ストレスが一つ減った。

十年後に話す

昔からの持論がある。自分にとってのいい話は、起きてすぐに人にしないほうがいい、ということだ。

ここでの、いい話というのは、有形無形の資産につながる何か。あるいは、資産そのもの。それから、お金では買えない、重みのあるものごとである。

世間では「悪い話はしないほうがいい」とよく言われる。でも、経験上、それよりずっと上位にくるのが、「いい話をしないほうがいい」である。

自分の人生を振り返っても、周りを見渡しても、同じ結論に行き着く。うっかり口にしたことで、痛い目を見る。子どもの頃から、自分のことをあまり話さずに生きてきた私ですらそういうことが起こる。

周りのプチ成功者にも、うまくいっている話やいい話ほど、他言しないと言っている人たちがいる。亡くなった人からも、同じ話を聞いた。

人生経験を積むと、結局、同じところにたどり着くものらしい。それは、成功者とされている人でも、普通の人でも変わらない。 

一定数の人は、マウントを取りにくる。子どもの頃からの性格で、悪気はないのかもしれないが、結果としてそうなる。

厄介なのは、どこか似たものを持っている人だ。同じではない、少し形が違う。そして、その少しの隙間に、嫉妬や羨望が滑り込んでくる。せっかくのいい話が、口にした途端、比較や値踏みの材料に変わる。

最近、湊かなえさんの『境遇』を読んだ。人と人との距離について考えてしまった。

伏せるというのは、楽なことばかりでもない。相手が、自分のことをどこか下だと思いながら話してくることがある。そういう時、こちらは黙って聞く。

いいことというのは、10年くらい経って、まだ続いていれば、本当にそうだったということになる。だとしたら、そのときに話せばいい。

今はどんなことでもSNSに載せる時代だ。人のマウントも可視化され、追いかけやすくなった。誰が何に反応するのかも、昔よりよく見える。

もっとも、私自身は、SNSを積極的にやる余裕もなければ、友達にたまにコメントする程度である。

原稿を書いて、台帳を開く(二/全二回)

原稿を書いて、台帳を開く(一/全二回)からの続きです。

この管理台帳への記入を一日怠ると、翌日が大変になる。一瞬の面倒くささを避けたつけは、次の自分に回ってくる。無料ブログのサーヴィスであっても、データを手元に残しておくという点では同じだろう。

8年前、Google検索からのアクセスが激減し、以降は不定期投稿となり、5年前に一度は筆を置いた。今年7月に再開した際には、放置していたWordPressのアップデートや古いテーマの整理に、膨大な時間を使った。まだまだ掃除は必要である。

それでも今回は、掃除だけで終わらせず、日々の記録も同時に残している。何をいつ書き、どんなカテゴリーとタグをつけ、どこまで作業したのか。未来の自分が、もう一度、過去の自分の仕事を掘り起こさなくて済むようにするためだ。

思えば、サイトの勉強を始めた十数年前も、人付き合いに割く時間を削って、パソコンに向かっていた。集まりに出る時間を減らし、サイトを触り、ブログを書いた。付き合いの範囲はずいぶん狭くなった。周囲から見れば、たかがブログだったかもしれない。だが、書く以外のことも、たくさんあった。

今も同じである。

日々のログを残し、台帳を整え、バックアップを取る。これは、未来の自分への最低限の礼儀だと思っている。

現在、私は初稿作成と推敲以外の作業を、できるだけ自動化できないか、その道を模索している。しかし、理想とする環境への道のりは、まだ遠い。何を自動化できるのかを知るためには、まず自分でその作業を理解しなければならない。手を動かし、この手の分野の本ももっと読んで学ぶ必要がある。

ネット検索は、わからないことの答えを探すには便利だ。しかし、そもそも何を知らないのかを知るには、本のほうがいいと思う。

書くのも大変だ。そのうえ今日も、原稿を書き終えたら、台帳を開く。

原稿を書いて、台帳を開く(一/全二回) 

ブログという媒体は、一見すると誰にでも始められる手軽なものに見える。しかし、実際に運営を続けていると、それが書くだけの作業ではないことに気づかされる。

文章を書くこと自体も、もちろん体力と気力を使う作業だ。だが、その原稿を支える裏側には、別の種類の仕事が控えている。たとえば、検索エンジンに向けたタイトルや要約、キーワードといったメタ情報の設定は、営業のようなものだ。そして、タグやカテゴリーの管理は、編集部でいえば整理や編成に近い仕事だろう。原稿を書くだけでは、書籍にも雑誌にもならない。それと同じで、書くだけでは、ブログという媒体は成り立たない

こうした裏方仕事に、最近はAIの手を借りることも増えた。いくつかのサーヴィスに同じ指示を出し、返ってきたものを見比べる。それでも、誤植があったり、こちらの意図が十分に反映されていなかったりする。どれを使っても、最後は人間の目による確認が欠かせない。これは指示を出す側の、私の技量の問題でもあるのだろうが、便利になったぶん、見落としの怖さもついて回る。

データの管理方法についても、変遷があった。

かつて、同じURLのWordPressでブログを運営していた頃は、データベースに記録があるからと安心し、バックアップといえばタイトルと本文を保存する程度で済ませていた。それも、続く時期もあれば、続かない時期もあった。しかし、タイトルと本文だけの記録では、後になって振り返る手がかりとしては心もとない。

今は、Excelやスプレッドシートを使い、日付、タイトル、本文に加え、カテゴリーやタグなどを横並びにして管理するようにしている。エクスポート機能はあるものの、そのボタンを押すのは結局、手動だ。

涙までの迂回路

最近、ある日本の女流作家の小説を読んで、涙がこぼれてしまった。場面は物語の終盤に差しかかったところだった。具体的な作家名や作品名は、ここではあげない。

本を閉じると、どこか憑きものが落ちたように、気分がすっきりしている自分に気がついた。泣くと、心が軽くなる。

このブログが違うタイトルだった頃、キャメロン・ディアスが「泣けない主人公」を演じる映画『ホリデイ』について触れたことがある。私も主人公に少し似ていて、昔からあまり泣かない、というか、泣けない。

自分に悲しいことや悔しいことがあっても、無意識のうちに感情に蓋をして、胸の奥に溜め込む癖がついてしまったのだろう。そういえば、小学生の頃から男子に「女のくせに」と言われ続け、5、6年前に発見した小学校の通知表には、男性教諭が受け持ちだった年に「女の子なのに〇〇です」と書かれていた。後者について母は、「そんなことを書かれて、悔しい思いをしていたのよ」と言っていた。

女性であることで、泣いたほうが得をする場面は、その後の学校生活にも、社会にも、常にあった。でも、私にはできない。しかし、自分のことではなかなか泣けないのに、誰かの悲しみには涙が出る。

今日は8月15日だ。普段、このブログにはあまりタイムリーな話題は書かないと決めているのだが、戦争に関することだけは、言葉にしておいた方がいいような気がしている。私の年ぐらいが、戦争を体験した人たちの話を、直接聞いて育った最後の世代だろう。

子どもの頃に触れた物語にも、戦争は当たり前のようにあった。テレビで放送された作品で印象的なのは、3月10日の東京大空襲も描かれる『ガラスのうさぎ』、中井貴一版ではなく、安井昌二が水島上等兵を演じた『ビルマの竪琴』だ。フランキー堺の「私は貝になりたい」などもあった。ジブリ作品が夏の定番になるもっと前から、お茶の間には、戦争を描いた作品が公共電波で流れていた。

父や祖父母、親戚、同級生のおじいさん、おばあさんから聞かされる話も生々しかった。父の一番上の兄は戦死しているし、母の父である私の祖父は、長崎の原爆で亡くなっている。血の繋がった人たちが理不尽に命を落としているのだから、戦争は決して遠い昔のことではない。

幼い頃、都内の大きな街へ行くと、傷痍軍人と呼ばれる人たちが、施しを求めている姿を見かけた。戦争で身体に傷を負った人たちだ。薄暗い国鉄の駅のそばや街角に座るその姿は、子どもの目には異様に映った。

敗戦から81年だ。戦争を経験していない私たちなのに、8月が来るたびに、まだ終わっていない気がすると、同世代と話すことがある。東京や神奈川で育った私たちの夏には、街なかにも郊外にも、いろいろな場所に薄暗い影が落ちている。

夏は、どうしてこうも悲しい記憶ばかりが重なるのか。

今夜もまた、物語を借りて、ひっそりと泣くのだろう。

 

【お知らせ】2026年8月15日8時10分頃更新しました。

バドゥ巻きの小さな革命

私の髪は、多い、太い、くせの三拍子が揃っている。長さはセミロングとロングの間あたりで、腰までは届かないものの、結べばしっかりとしたシニヨンができる。おろすと、昔のサーファーカットのような感じ。

団塊ジュニア世代という年齢のわりには、髪の毛の勢いが衰える気配がない。十代の頃からお世話になっている美容室のオーナーに、「昔に比べたら、扱いやすくなったでしょ」と聞いた。でも、オーナーは一瞬無言になり、「そうでもないわねえ」と言った。

これは完全に遺伝である。間もなく卒寿を迎える父も、80を超えた母も、昔に比べて減っているものの、年齢のわりにだいぶ髪が多い。アラフィフの妹にいたっては、ヘルメットをかぶっているように見える。

思い返せば小学生の頃、母の趣味で、私たちは、マッシュルームカットだった。妹はストレートなのでカリメロのように愛らしかった。しかし、私の広がるくせ毛に、マッシュルームは相性が悪く、鏡の中にいたのは少女ではなく、立派なキノコだった。

そんな、毛量との戦いを半世紀近く続けてきた私に、この一週間ほどで小さな革命が起きた。髪の乾かし方の発見である。

私の入浴手順はこうだ。まず頭を洗い、その後に、髪をお団子にし、顔や体を洗う。元気があるときだけ湯船に浸かり、上がったら頭にタオルで巻く。汗が引いた頃にタオルドライをしてドライヤーを当てる。

しかし、いくら風を当てても完全に乾くことなど滅多にない。昔、某姉妹の妹さんが「毎日11分かけてドライヤーを当てる」とテレビで言っていたのを見て真似しようとしたが、11分も腕を上げ続ける体力は私にはなかった。

ところが先日、風呂場に髪ゴムを忘れていることに気づいた。見れば、バレッタもない。仕方なく、お団子にできないまま髪をまっすぐ伸ばした状態でタオルを巻き込み、端をねじり込むようにして留めてみた。洋楽が好きなら伝わるかもしれないが、エリカ・バドゥのあのターバン(バドゥ巻き)のような姿である。

お団子をくずして伸ばしたままタオルに包む。たったそれだけのことなのに、風呂上がりの汗を待つ間にタオルに吸い取られる水分の量が違った。今まで私は、お団子に丸め込むことで自ら湿気を内部に閉じ込めていたらしい。 

お団子をやめるというだけの工夫で、その後のドライヤー作業が楽になった。ロングヘアの人からすれば、何を今さら、という常識かもしれない。皆さん、ご存じでしたか。

とにかく、この発見はうれしい。

十数曲分の防衛線

精神的に「まずいな」と思ったとき、半ば無理やりやることがある。それは、歌うことだ。

カラオケボックスへ行くわけではない。時おり友人と出向くことはあっても、心が危険信号を発しているときは、誰かを誘う時間さえもどかしい。すぐに、今いるこの部屋で始めてしまう。

たいていの曲は、YouTubeやSpotifyにある。もちろん、ないものもある。音源を流し、それに合わせて、近所迷惑にならない程度に声を出す。ごていねいにも今のアプリは歌詞が画面に流れるものが多いし、表示されなければ、検索して文字を追いかける。

何を選ぶかは、その時次第だが、私なりの定番ルートがある。まず、メアリー・J・ブライジの熱っぽい歌声から、地続きのように原曲のトッド・ラングレン「Hello It’s Me」へ。Loleatta Hollowayが歌い、サルソウル・オーケストラやニューヨリカン・ソウルでカヴァーされた「Runaway」を挟むのもお約束だ。

日本の曲なら、小学生の頃から大好きな原田知世か大貫妙子に、自分の声をそっと重ねる。そして、阿部義晴の「欲望」、さだまさしと田島貴男のさまざまな曲。一昨年亡くなったミポリンも。デビュー曲から作詞作曲家陣に恵まれていた人だと思う。

そして、デルタブルースのスキップ・ジェイムズへ飛ぶこともあれば、デトロイトのドゥウェレとその周辺にいる人たち。イースト・エンドが「DA.YO.NE」以前に発表した『Beginning of the END』、キングギドラ『空からの力』、さらにはブッダ・ブランドの「人間発電所」まで、気の向くままに声を出す。

『Beginning of the END』と『空からの力』は、楽曲も素晴らしい名盤であると同時に、日本文学史に残してよいくらいの文学作品だと思っている。「人間発電所」は母語なのに難しい。それでも長いこと口にしているうちに、だんだんついていけるようになった。これもまた名曲なのである。

グランドマスター・フラッシュの「The Message」まで歌い終えると、気分がすっきりしている。「The Message」は、通っていたアメリカの大学で、文学のテキストに歌詞が掲載されていた。アメリカでは文学としても扱われるのだ。

仕上げに、心を清めるつもりでパーラメントの「The Silent Boatman」を歌えたら最高である。ルース・コープランドまでいけたらさらにだ。

曲を選ぶという行為は、出会った頃の記憶を引っ張り出す作業でもある。クラシックから現代のものまで、いろいろ聞くが、「レコード・コレクターズ」や「ブルース&ソウル・レコーズ」に載っているようなものが好きだ。音楽は、語り出すとキリがないので、ここでは置いておく。

そして、歌う行為は、ただ耳にしているより、気持ちがいい。プロの歌手たちも、かつてはこんな衝動を抱えて声を出し始めたのだろうか。

人間が初めて歌ったのは、いつのことだろうと思う。よくぞこんなことを考えついたものだ。言葉をのせ、音に合わせ、やがてメロディーが生まれていく。その過程にどれほどの歳月が必要だったのかはわからないが、先人の発明には頭が下がる。

御託はともかくとして、本当にまずい夜は、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Runnin’ Away」を選ぶ。あの軽快で、どこか切ないステップに置いていかれないように。

【お知らせ】今回から、英単語・英数字の表記を一部変更しています。

インディゴとシニヨン(二/全二回)

インディゴとシニヨン(一/全二回)からの続きです

腸につながるという例の部分はどんどん白くなっていった。そこまでしなくても、と周囲には呆れられたが、鏡を見るたびに耐えがたく、週末ごと、長くても2週間に一度はヘナを塗りたくっていた。ところが、身を置く環境を変えてみたところ、あんなにせっせと染めなくてもよくなったのだ。明らかに白髪の増えるペースが落ちている。あれはやはり、何かしらのストレスだったのだろうか。

そういえば、フランスやイタリアの映画やファッション誌に出てくる女性たちが、帽子に凝ったり、スカーフを巻いているのも、もしかしたら白髪隠しがもともとなのではないかとも思い始めていた。

それにしても、家でのヘナ染めはなかなかのハードワークだ。髪を洗い、ペーストを作り、手袋をして髪に揉み込む。そのまま一時間近く放置して、また洗い流す。手袋の隙間からうっかり色が入れば手は荒れるし、爪も染まる。美容院でやってもらう手もあるが、ケミカルなカラーリングよりも時間がかかるし、全くリラックスできない。そして、往復の時間を考えると憂鬱になる。結局、家でやる方が気楽なのだ。

一時期は、夜のうちにヘナを塗り、枕元にビニールシートとタオルを敷き詰め、さらに頭にもタオルを巻いてそのまま寝る「寝ヘナ」を試みていた時期もあった。しかし、失敗すると厄介だ。朝起きてシーツにシミを見つけたら洗濯物が増える。

そんなに大変なら、短く切ってしまえばと言われそうだが、そうもいかない。私の髪は太くて量が多く、おまけにコシのあるくせ毛で、中途半端に短いと爆発する。小学生の頃は、母親の趣味でマッシュルームカットだったのだが、膨張する髪質なので、ほんとうにキノコであった。いまだに同級生に言われるくらい。この髪質だと、セミロングからロングの間を保ち、ひっつめてシニヨンにまとめるのが手っ取り早くて楽なのである。

だからこそ、1、2週間に一度のペースで追われていたヘナ染めが、月に一度の行事に落ち着いたのは本当にありがたい。時間、体力、光熱費。どれをとっても助かる。頑固な髪をまとめながら、これ以上増えませんようにと願う毎日なのである。

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

年に一つは、新しい道具を

このブログで公開した投稿をnote用に再編集して公開することを始めた。極力毎日更新するとあちらに書いたが、noteは、少しゆるくやっていこうと思っている。

あまりに素っ気ないのもどうかと思い、サイトに少しずつ飾り付けに手を付けることにした。まずはバナーである。

ペイントやGIMPといった画像ソフトなら、それなりに使える。デザイナーではないから毎日のように触るわけではないにせよ、一通りの技能はある。だが今回は、今どき人気の「Canva」を使ってみることにした。

開いてみると、画面がいかにも今時っぽい。重厚感がない。どこまでも軽い感じ。出来上がればそれでいいのだが、この「軽い、軽いんだよ」という感覚に、戸惑った。

サクッと終わるだろうと高を括っていたのが間違いだった。わからないところを調べたり聞いたり、いざnoteに設定してみても思うように反映されず、結局また最初から作り直す羽目になった。疲れてしまった。新しい道具というのは、頭の体操を要求してくる。

出来上がったバナーは、素人臭さが抜けない。一流のデザイナーたちの完璧な仕事を見てきた私の目には、はっきりとわかる。とはいえ、無料で作ったのだし、目的さえ伝わればそれでいいと割り切ることにした。

私は普段、新しいツールには慎重な方だ。LINEやWhatsAppといったチャットアプリの類は、世に出始めた2010年前後から、直感的に、これは使ってはいけないツールと嗅ぎ取り一切使っていない。 

祖父の名前をたどる

少し前、SNSを眺めていたら、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って自分のルーツを調べることが、一部の人たちの間で静かな流行を見せていた。

親族の中に文献を残した人が何人かいる私も、そのアーカイヴをたどってみることにした。著作の多かった大叔父の名前があることはわかっていたが、念のため祖父の名前も入れてみた。わりとすぐに見つかった。

長崎に生まれた祖父が、東京の私大を出ていたことは、近年になって知った。祖父が若い頃、東京で暮らしていたこと自体が、私には意外だった。

その後、故郷のミッションスクールで国語の教員をしていたことは前から聞いていたが、デジタルアーカイヴをたどるうち、教壇に立つかたわら、編集や校正といった活字にまつわる仕事にも携わっていたことを知った。多くの本を残した大叔父だけでなく、祖父もまた、活字の世界に身を置いていた。

私は、祖父の顔を知らない。母もまた、自分の父親の顔を知らない。祖父は、母が生まれる約1カ月前、長崎の原爆で死んだ。

出産を間近に控えた祖母は、大分にある実家に身を寄せていた。祖父は夏休みの間、祖母の顔を見るために大分へ来ていたという。そのまま留まっていればよかったものを、祖父は長崎へ帰る汽車に乗った。教え子たちが、学徒動員で三菱系の工場で働いている。彼らの顔を見に行かなければ、と。

8日のことだったのか、あるいは9日の朝一番だったのか。大分から長崎へ向かった祖父の正確な足取りは、もう誰にもわからない。

遺骨もないからだろうか。母も、すでに他界した伯父も、よく口にしていた。実はどこかで生きていたんじゃないかと。私も、時々思った。実は、新しい家庭があったんじゃないか、とか。 

長崎出身の友人のおじいさまは、広島で被爆し、その後長崎へ戻って再び被爆したそうだ。それでも80代までご健在だったという。同じ8月でも、人の運命はこんなにも違う。

1978年、大叔父が取り仕切ってくれた三十三回忌の法事の記憶が、かすかにある。生きて会うことは叶わなかった人。それでも、名前の入った文献を読むと、自分にも同じ血が流れているのを感じる。

記録を残すというのは、なんて心強いことだろう。顔も知らない祖父との距離を少し縮めてくれる。

そして、その足跡は、何も紙やアーカイヴの中だけにあるのではない。今日のこの一行も、誰かと誰かを巡り合わせるものになるのかもしれない。

荒野に、もう一つの看板を

私が、Bloggerでブログを始めたのは、2013年だった。翌年1月2日、現在のこのサイトへ移り、16年に潰瘍性大腸炎(UC)が再燃して病床に伏していた時期を除けば、21年の夏まで、言葉を置き続けてきた場所である。

十数年前、周りに、自分で個人サイトを一から育てる人はほとんどいなかったと記憶している。出版社の人も、レコード会社やレーベルの人も、芸術家も、大企業に勤める人たちがたくさんいた。ソーシャルメディアを使う人は増えていたが、自前のサイトを持ち、土台から組み立てる人には、ほとんど出会わなかった。

聞ける相手は一人もいなかった。専門用語ばかりの本を買い込み、画面の前で唸りながら、一つひとつ検索して意味を覚えた。会社員のかたわら、音楽配信レーベルを立ち上げ運営していたときも同じだった。サイトを組み立て、Googleという世界最大級の広告システムの仕組みを知り、SEOやAdSenseを学び続けた。

当時は、無料のSNSやブログサービスを片っ端から借り、このサイトへの入口を作っていた。それぞれにリンクを貼り、「無給で24時間働く営業マン」としてネットの海へ送り出していたのである。

ブログを再開してからは、その古びた営業マンたちの後片付けをしている。放置されたアカウントや切れたリンクを見つけるたび、ノートに書き出し、あちこちに「掃除中」の札を掛けて歩く。

借りた場所は、借りたままにしない。一つひとつ閉じたり、片づけたりする作業は面倒だ。それでも終えるたびに、部屋の空気が少し軽くなるような気がする。

その中で、いくつか残すことにした場所がある。そのうちの一つがnoteである。

7月25日、ブログ再開をnoteで知らせた。それから8月6日、二本目の記事を公開した。プロフィールには、「一篇一銭」と書いた。毎日の文章に、もう一つの価値を。

このブログには、これまで通り、日々の暮らしや考えを置いていく。noteには、仕事や暮らしの中で得た経験を整理し、誰かが明日から使える知恵として届けたい。実用書やビジネス書に近い文章は、そちらに少しずつ並べていくつもりでいる。

13年前、何もない荒野で一人、看板を立てた。あれから何度も立ち止まり、病気で休み、道を変えた。手を動かしている限り、この店は続く。あの日の看板は、風雨にさらされながらも、まだ折れていない。だから今日、もう一つの看板を掲げた。

https://note.com/realkeijp

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