出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

投稿者: RealKeiJP (1ページ目 (2ページ中))

本を軸に28年。出版流通と雑誌・書籍の企画編集を経て、情報と活字の世界を歩んでいます。東京都生まれ。団塊ジュニア世代。女性。

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

年に一つは、新しい道具を

このブログで公開した投稿をnote用に再編集して公開することを始めた。極力毎日更新するとあちらに書いたが、noteは、少しゆるくやっていこうと思っている。

あまりに素っ気ないのもどうかと思い、サイトに少しずつ飾り付けに手を付けることにした。まずはバナーである。

ペイントやGIMPといった画像ソフトなら、それなりに使える。デザイナーではないから毎日のように触るわけではないにせよ、一通りの技能はある。だが今回は、今どき人気の「Canva」を使ってみることにした。

開いてみると、画面がいかにも今時っぽい。重厚感がない。どこまでも軽い感じ。出来上がればそれでいいのだが、この「軽い、軽いんだよ」という感覚に、戸惑った。

サクッと終わるだろうと高を括っていたのが間違いだった。わからないところを調べたり聞いたり、いざnoteに設定してみても思うように反映されず、結局また最初から作り直す羽目になった。疲れてしまった。新しい道具というのは、頭の体操を要求してくる。

出来上がったバナーは、素人臭さが抜けない。一流のデザイナーたちの完璧な仕事を見てきた私の目には、はっきりとわかる。とはいえ、無料で作ったのだし、目的さえ伝わればそれでいいと割り切ることにした。

私は普段、新しいツールには慎重な方だ。LINEやWhatsAppといったチャットアプリの類は、世に出始めた2010年前後から、直感的に、これは使ってはいけないツールと嗅ぎ取り一切使っていない。 

祖父の名前をたどる

少し前、SNSを眺めていたら、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って自分のルーツを調べることが、一部の人たちの間で静かな流行を見せていた。

親族の中に文献を残した人が何人かいる私も、そのアーカイヴをたどってみることにした。著作の多かった大叔父の名前があることはわかっていたが、念のため祖父の名前も入れてみた。わりとすぐに見つかった。

長崎に生まれた祖父が、東京の私大を出ていたことは、近年になって知った。祖父が若い頃、東京で暮らしていたこと自体が、私には意外だった。

その後、故郷のミッションスクールで国語の教員をしていたことは前から聞いていたが、デジタルアーカイヴをたどるうち、教壇に立つかたわら、編集や校正といった活字にまつわる仕事にも携わっていたことを知った。多くの本を残した大叔父だけでなく、祖父もまた、活字の世界に身を置いていた。

私は、祖父の顔を知らない。母もまた、自分の父親の顔を知らない。祖父は、母が生まれる約1カ月前、長崎の原爆で死んだ。

出産を間近に控えた祖母は、大分にある実家に身を寄せていた。祖父は夏休みの間、祖母の顔を見るために大分へ来ていたという。そのまま留まっていればよかったものを、祖父は長崎へ帰る汽車に乗った。教え子たちが、学徒動員で三菱系の工場で働いている。彼らの顔を見に行かなければ、と。

8日のことだったのか、あるいは9日の朝一番だったのか。大分から長崎へ向かった祖父の正確な足取りは、もう誰にもわからない。

遺骨もないからだろうか。母も、すでに他界した伯父も、よく口にしていた。実はどこかで生きていたんじゃないかと。私も、時々思った。実は、新しい家庭があったんじゃないか、とか。 

長崎出身の友人のおじいさまは、広島で被爆し、その後長崎へ戻って再び被爆したそうだ。それでも80代までご健在だったという。同じ8月でも、人の運命はこんなにも違う。

1978年、大叔父が取り仕切ってくれた三十三回忌の法事の記憶が、かすかにある。生きて会うことは叶わなかった人。それでも、名前の入った文献を読むと、自分にも同じ血が流れているのを感じる。

記録を残すというのは、なんて心強いことだろう。顔も知らない祖父との距離を少し縮めてくれる。

そして、その足跡は、何も紙やアーカイヴの中だけにあるのではない。今日のこの一行も、誰かと誰かを巡り合わせるものになるのかもしれない。

荒野に、もう一つの看板を

私が、Bloggerでブログを始めたのは、2013年だった。翌年1月2日、現在のこのサイトへ移り、16年に潰瘍性大腸炎(UC)が再燃して病床に伏していた時期を除けば、21年の夏まで、言葉を置き続けてきた場所である。

十数年前、周りに、自分で個人サイトを一から育てる人はほとんどいなかったと記憶している。出版社の人も、レコード会社やレーベルの人も、芸術家も、大企業に勤める人たちがたくさんいた。ソーシャルメディアを使う人は増えていたが、自前のサイトを持ち、土台から組み立てる人には、ほとんど出会わなかった。

聞ける相手は一人もいなかった。専門用語ばかりの本を買い込み、画面の前で唸りながら、一つひとつ検索して意味を覚えた。会社員のかたわら、音楽配信レーベルを立ち上げ運営していたときも同じだった。サイトを組み立て、Googleという世界最大級の広告システムの仕組みを知り、SEOやAdSenseを学び続けた。

当時は、無料のSNSやブログサービスを片っ端から借り、このサイトへの入口を作っていた。それぞれにリンクを貼り、「無給で24時間働く営業マン」としてネットの海へ送り出していたのである。

ブログを再開してからは、その古びた営業マンたちの後片付けをしている。放置されたアカウントや切れたリンクを見つけるたび、ノートに書き出し、あちこちに「掃除中」の札を掛けて歩く。

借りた場所は、借りたままにしない。一つひとつ閉じたり、片づけたりする作業は面倒だ。それでも終えるたびに、部屋の空気が少し軽くなるような気がする。

その中で、いくつか残すことにした場所がある。そのうちの一つがnoteである。

7月25日、ブログ再開をnoteで知らせた。それから8月6日、二本目の記事を公開した。プロフィールには、「一篇一銭」と書いた。毎日の文章に、もう一つの価値を。

このブログには、これまで通り、日々の暮らしや考えを置いていく。noteには、仕事や暮らしの中で得た経験を整理し、誰かが明日から使える知恵として届けたい。実用書やビジネス書に近い文章は、そちらに少しずつ並べていくつもりでいる。

13年前、何もない荒野で一人、看板を立てた。あれから何度も立ち止まり、病気で休み、道を変えた。手を動かしている限り、この店は続く。あの日の看板は、風雨にさらされながらも、まだ折れていない。だから今日、もう一つの看板を掲げた。

https://note.com/realkeijp

渇きと祈りの四リットル

私はコーヒーやお茶とは別に、毎日四リットル以上の水を飲む。夏になれば、その量は六リットル近くになる日もある。人に話すと驚かれることが多いが、私にとっては特別なことではない。生きていくための日課である。

家で飲む水は、何本ものボトルに備長炭を沈めている。外出するときは、五百ミリリットルのペットボトル二本にその水を注ぎ入れる。そのままのこともあれば、生理食塩水より塩分濃度が高くならない程度に海塩を加え、ビタミンCの粉末とほんの少しのサッカリンを入れるときもある。私だけの、自家製ポカリスエットである。

外を歩けば、一リットルなどあっという間に飲み干してしまう。出先で水を買い足せば、今度は体内の塩分が薄まる。そんなときは、昔から愛用している乾燥梅干しのタブレットを口に入れたり、小さなボトルに入れた海塩を水へ加えたりして調整する。水代だけでも決して安くはない。それでも、生きるために必要な出費だと思っている。

私には、十五歳から潰瘍性大腸炎(UC)がある。人生の大半をともにしている疾患だ。最近になって、UCは脱水を防ぐため、水分補給がとても大切だという説明をあらためて目にした。言われてみれば、思い当たることばかりだった。また、心臓が急き立てるように脈打つときは、決まって体が水を求めている。塩分を伴わずに水だけを飲みすぎれば、今度は体が余分な水分を外へ出そうとする。

「そんなに飲んで大丈夫なの」と、よく聞かれる。しかし、私は飲む。飲まなければ、生きていけない。

だから、有事で水が止まったときのことが、いつも頭の片隅にある。水の備蓄はしている。それでも、一日にこれだけ飲む人間にとっては、安心できる量とは言い難い。どれほど備えても、不安がなくなることはない。

先日の熊本の地震でも、私の頭に真っ先に浮かんだのは、水のことだった。

知人に、熊本に実家がある人がいる。地震の知らせを聞いてから、ご家族は無事だろうかと気になっていた。だが、本当に大変な状況に置かれているかもしれないと思うと、軽々しく連絡することもできなかった。

今日になり、ご家族の無事を知り、胸をなで下ろした。同時に思ったのは、この暑さの中で水を必要としている人たちのことだった。

健常者も水がなければ命に関わる。まして、病気を抱えている人や高齢者、小さな子どもたちは、どれほど心細い思いをしているだろう。ニュースを聞くたび、そんなことばかり考えてしまう。

無事が確認できた知人は、自身のお店で義援金を募っている。私も、次に店を訪れたときに寄付をしようと決めた。前回のときも、そうしたように。大きなことはできない。それでも、自分にできることを一つずつ積み重ねるしかない。

今日も私は、いつものようにグラスへ水を注ぐ。当たり前に水を飲めることは、当たり前ではない。そう思うだけで、その一杯は昨日より少しだけ重みを増す。

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白と藍の壺の中

子どもの頃から、我が家の食卓には当たり前のようにぬか漬けが並んでいた。母が毎日、ぬか床から上げていた。私は、きゅうりの古漬けが大好きである。

ある夏、両親の郷里である長崎と大分へ、家族で帰省することになった。留守の間、母は官舎で親しくしていた近所の人に、ぬか壺の世話を頼んで出かけた。私の幼なじみのお母さんでもあった。

一週間か二週間ほどして東京へ戻り、母がお土産を手にお礼へ伺うと、思いもよらない話を聞かされた。そのお宅は、急に山形の実家へ帰っていたという。

では、我が家のぬか床はどうなっていたのか。

小母さんは、壺ごと車に積み込み、山形まで連れて行ってくれていたのだった。ご実家でも毎日かき混ぜ、帰りの車にもまた一緒に乗せてくれたそうだ。

今思えば、当時の車は、全く快適ではなかったはずだ。それでも、母から預かったぬか床を連れて行ってくれた。その話になるたび、母は今でも「本当に申し訳なかった」と笑う。

几帳面な母でも、ときにはぬか床をだめにしてしまうことがあった。だが、一から作り直すことはしない。贔屓にしていた新宿の百貨店の漬物売り場へ行き、顔なじみの店員さんに「少し分けていただけないかしら」と頼んで、熟成した種ぬかを分けてもらう。もちろん、ぬか漬け以外の漬物も買っていた。そんなやり取りが自然に成り立つ時代だった。百貨店は、まだ庶民のための店だった。

一人で暮らすようになり、いつの間にか、あの匂いは食卓から消えていた。時おり、無性に食べたくなって八百屋やスーパーで買うこともあったが、子どもの頃から当たり前にあったものが、思いのほか高いことに気がついた。

そんなわけで、去年の夏、ようやく私もぬか漬けを始めることにした。近所の自然食品店で、母が使っていたのと同じぬかを見つけ、種ぬかなしで始めた。

問題は、容器だった。実家にあったような大きな壺は、一人暮らしの身にはあまりに大きい。ネットで調べると、ホーローに入れて冷蔵庫で管理している人が多いようだった。

だが、毎日手を入れるものだからこそ、気に入った器を使いたかった。古美術店を何軒か覗いて歩き、ようやく出会ったのが、白地に濃い藍で梅の枝と人物が描かれた、茶道具の水指だった。「ぬか漬け用なんです」と話すと、店主は少し笑って、勉強してくれた。

あれから、まもなく一年になる。月に二度ほど新しいぬかを足しながら、味もすっかり落ち着いてきた。今の季節なら、ゴーヤやナスを放り込んでおく。水指の蓋を外し、野菜を取り出す。その一連の動きが、いつの間にか私の日常になった。

思うようにいかない日もある。そんなときでも、底からゆっくりとかき混ぜていると、今日の暮らしを育てている気持ちになる。

ぬか床は、急かしても育たない。それでも、手をかけた時間は、味になって返ってくる。それが、私に明日へ向かう力をくれている。

完璧な食卓を降りる

少し前に、母と家事の話になった。

改まって話し込んだわけではない。世間話の流れで、母のまわりにいる高齢者たちの暮らしぶりを聞くことになった。聞けば、皆さん、思っていた以上に合理的だった。冷凍野菜や市販のおかずを上手に取り入れ、中には紙皿や紙コップを日常的に使っている人もいるという。

食材は生協でまとめて買い、何でも手作りしていた母でさえ、最近は生協の冷凍おかずを買うことがあるらしい。餃子がおいしいらしい。現在どこの生協を利用しているかは聞きそびれた。

もうすぐ卒寿を迎える父は、食卓に紙皿や紙コップが並ぶのを好まない。だから母自身は使わない。それでも私には、こう言った。「やってみたら。少しは家事が楽になるかもしれないわよ」

母は分かっている。私の毎日の忙しさも、体に抱えているものも。あれは、母なりの、完璧を目指さなくていい、という許可だったのだと思う。

私は十五歳で潰瘍性大腸炎を発症した。以来、水分補給は暮らしの中心にある。毎日四リットル以上の水と海塩を摂るのが私のルールで、特に夏は、コップや水筒を洗っても洗っても、また洗う時間がやってくる。夏が来るたびに、うんざりしていた。

母の言葉を聞いた私は、さっそく近所の百円ショップへ向かった。まずは紙皿と紙コップを一袋ずつ買ってみる。食事を載せると、その軽さに思わず落としそうになった。

今は近所の店を回りながら、厚みや強度を比べて、お気に入りを探している最中である。気に入った品ほどなぜか定番にならないようで、次に行くと棚から姿を消していることもある。それでも、いいものが見つかれば、まとめて買うつもりだ。

もちろん、ゴミは増える。以前、洗い物を減らしたくて五百ミリリットルのペットボトルの水を大量に買っていたことがあった。しかし、積み上がるプラスチックを前にすると、どうしても気持ちが落ち着かなかった。ところが、不思議なことに、紙皿や紙コップには同じ罪悪感を覚えない。

「紙だから」

たったそれだけの、自分勝手な理屈である。それでも、その小さな理屈のおかげで、私の心は少し軽くなった。

コップを洗う回数が減り、食後の皿洗いも減る。毎日の家事は軽くなった。

習慣というものはなかなか変わらず、気が付けばいつもの愛用のコップやどんぶりを使っている時もある。それでも、シンクに立つ時間は、少しずつ短くなっている。

紙コップと紙皿を折ってゴミ箱へ入れるたび、完璧な暮らしを続けることよりも、今日を無事に終えられることのほうが大切なのだ。母が許してくれたのは、紙皿ではない。完璧でいようとする私なのである。

巨万の富と、ひと握りの青菜 

私には、長年の人体実験によって導き出した食事のルールがある。

十五歳で発症した潰瘍性大腸炎。主治医は何を食べても構わないと言うし、この病気が食べ物だけで左右されるわけでもない。それでも私は、不調をきたすものを、少しずつ食卓から遠ざけてきた。好物もその例外ではない。

陸生哺乳類の肉は食べず、葉野菜は、アブラナ科のものを選ぶことが多い。小松菜、水菜、チンゲン菜などである。同じアブラナ科でも、ブロッコリーは食べるが、キャベツや辛味の強いものは口にしない。

真夏になると、できるだけ火を使いたくない。使うとしても、ほんの数分で終わるものがいい。そんな夏に決まって作るものがある。「本多静六のホルモン漬け」だ。

本多静六は、日比谷公園をはじめ全国の公園を手がけた「公園の父」である。薄給から巨万の富を築いた人物としても知られている。晩年まで、かくしゃくとして過ごした彼が実践していたというのが、植物の新芽などをきれいに洗って塩漬けにする、独自の「ホルモン漬け」だった。

さすがに八百屋やスーパーで新芽ばかりを買い揃えるのは難しいので、これを自分流にアレンジしている。小松菜や水菜、時にはチンゲン菜を細かく刻み、塩を振って一晩おく。そして食べる直前にたっぷりの水で洗い、ギュッと絞る。それだけだ。塩は、平釜製法の海塩を使う。

昆布も、だしも使わない。ただの葉野菜と塩だけなのに、不思議なくらいおいしい。本多翁は炊き立てのご飯にのせて食べていたという。私はそのままつまんだり、米粒の形をした小さなパスタにたっぷりのせたりして食べる。

最後に、気に入っている三年醸造の醤油を少しと、サラダ油かぶどう油をかける。あっさりとした塩気にほどよいコクが加わり、それだけで十分な一食になる。

根元の泥を落とすために葉の隅々までていねいに洗わなければならないし、細かく刻む手間もかかる。それでも、火を使わずに済むというだけで、夏の台所では楽なのである。米粒のパスタも、そうめんほどの時間で火が通る。

制約があるからこそ、たどり着ける食卓がある。青菜を刻み、塩をまぶしていると、この身体にはこのからだの暮らし方があるのだと思う。それは、夏を健やかに過ごすための、小さな知恵なのである。

 

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巨万の富を築いた本多静六が、日々口にしていた「ホルモン漬け」
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快適と停滞

最近、三十九円のピーマンで半日を棒に振った。その日はどうしても、油揚げとピーマンを軽く炒めたものが食べたかった。最近の私は油揚げに凝っている。どうやら油揚げというものは、素材がよく、それなりに値の張るもののほうがおいしいらしい。

本当は、ししとうで作りたかった。しかし、私には刺激が強すぎるかもしれないと思い、スーパーで安売りされていた三十九円のピーマンを手に取った。

安かったことが問題だったわけではない。長年の経験で、自分にはピーマンが合わないことを知っている。それでも、食べたかったのである。おいしかった。

食後しばらくして、唇がビリビリとしびれ始めた。嫌な予感がした。気持ち悪さがじわじわと押し寄せた。血圧計を見なくてもわかる。長年付き合ってきた低血圧の体は、危険信号の出し方を私に教え込んでいる。慌てて正露丸を一粒飲み込んだ。

喉が痛いときも、鼻の調子が悪いときも、私はとりあえず正露丸を飲む。潰瘍性大腸炎には効かないことも、医学的には正しい対処ではないことも承知している。それでも手が伸びるのは、父の影響だ。

父は、大学を卒業してから定年まで勤め上げ、その後も八十歳まで働き続けた。突然体調を崩して仕事を休むような人ではなかったが、熱が出ると決まって正露丸を飲んでいた。その姿を見て育った私は、この十年ほど、父の癖をそのまま受け継いでいる。

もっとも、今回ばかりは正露丸も歯が立たなかった。寝不足も重なり、私は半日横になって過ごすことになった。

私には、食べ物についていくつものルールがある。それは本やインターネットで覚えた知識ではない。何十年もの失敗を重ね、体を張って覚えた経験である。ピーマンも、その一つだった。

ルールというものは、思いつきでは作れない。痛い目を見て、失敗を繰り返し、その経験が体に刻み込まれて初めて、自分だけのルールになる。そして、そのルールを守り続けることで、やがてルーティンになっていく。

今、私は余暇のほとんどを、このブログの構築に注ぎ込んでいる。更地に家を建てているわけではない。二〇一三年から二〇一八年頃まで本格的に書いた記事や、その後、二〇二一年八月まで細々と続けていた投稿はすでに下書きにしていたが、手を入れながら作り直している。WordPress.orgの投稿を、一つひとつ読み返すことはない。膨大、その余裕がない。 

しかし、宣伝用に無料ブログを利用していたことで、タイトルなどは見ることになる。恥ずかしい。

それでも、過去の自分と向き合うたび、不思議と目は未来へ向く。

近年、時間は過去から未来へ流れていくものではなく、未来から現在へやって来るものなのではないかと思うようになった。だから未来は、待つものではない。迎える準備をするものなのだ。

ぬくぬくと快適な場所に居続けることは心地いい。だが、その快適さは、ときに人を停滞させる。

十三年前、出版社を辞めたときも、同じような思いがあった。会社が続く限り、定年まで働くことはできただろう。それでも私は、その先の自分を想像したとき、このままでは立ち止まってしまう気がした。

新しいことを覚え、小さな目標を立て、一つずつ越えていく。今いる場所の外へ出る作業は、体力も気力も使うし、決して楽ではない。

それでも、このブログを整える時間、書く時間は、楽しい。過去を片付けることは、未来を迎える準備でもあるし、執筆は、自分に向き合える。

三十九円のピーマンで半日を失った私は、また一つ、自分のルールを思い出した。

秘密のまま閉じる

心が落ち着かない時、人はどうにかして、自分でコントロールできる小さなことを探し始めるらしい。

私の場合は、有料無料を問わず使わなくなったサーヴィスの解約と、長らく放置していたWebサイトの閉鎖作業だった。

Webサイトの閉鎖は、自分で立ち上げたものだからこそ、根気がいる。中身を取り出し、サーヴァーやドメインの契約も整理していく。ガイダンスはないから、自分で箇条書きしたものを埋めていく。 

本来なら、普段からデータのバックアップをスプレッドシートにまとめておくべきだったのだ。それすらしていなかった私は、最初は、プラグインを使って一括で引っ張り出そうとした。しかし、こういう時に限ってうまくいかない。結局はひとつずつ画面を開き、手作業で確認しながら進めることになった。 

最後のサーヴィスの解約のボタンを押した。

押した瞬間は、何も感じなかった。達成感も後悔もない。しかし、パソコンを閉じてしばらくすると、遅れてじわじわと寂しさが込み上げてきた。ああ、本当に終わらせてしまったのだなと。

閉鎖を決めたのは、「16 pages(16ページ)」というサイトだ。

立ち上げるときは、URLの候補を五十個ほどノートに書き出し、ひとつずつドメインの空き状況を調べた。インターネットが当たり前になって久しい今、まともな英単語や短いフレーズは、もうほとんど使われている。半ば諦めながらノートを眺めていた時、ふと浮かんだのが、その名前だった。

十六ページ。印刷や製本に携わったことのある人なら、ピンとくる数字だ。一枚の紙を折り重ねて作る「折丁(おりちょう)」は、多くの場合、十六ページ単位で構成される。本という大きな物語を形づくる、基本となるひとかたまりである。

その名前の由来を話したのは、ごく親しい友人三人だけだった。テック業界で働く二人は「すごく素敵じゃない」と目を輝かせてくれた。出版業界にいるもう一人の友人は、「その意味が分かる人は、そんなに多くないと思うよ」と笑った。

あまりにも現実的な一言に、私も思わず苦笑いした。

それなら、この由来は自分だけの秘密にしておこう。そう決めて、サイトにも書かず、SNSでも一度も触れなかった。秘密は、そのまま持ち続けるつもりだった。

ところが、その頃から、目の前の暮らしを回すだけで精一杯の日々になった。だいぶ前、占い師の友人が「この時期は大変になるわよ」と言っていたのを思い出す。渦中にいるときは気がつかないが、振り返れば、確かにそういう星回りの時期だったのだろう。サイトを更新する余裕などどこにもなく、いつか立て直そうと思いながら、時間だけが過ぎていった。 

自分の力ではどうにも動かせない現実の焦りから逃げるように、私はつい先日、自分の手で、そのサイトに幕を引いた。

まもなく、「16 pages(16ページ)」は見られなくなる。

誰にも話さないまま終わらせるつもりだった名前の由来を、消えるいまになって初めて書いている。我ながら、勝手なものだと思う。

自分では変えられないことは、世の中にいくらでもある。その小さな終わりは、次の一枚をめくるための始まりなのだ。

 

生きる力、怒る力

怒るのは、とにかく体力を使う。だからここ十年ほど、私のスタイルは、流すことだった。

若い頃を思い返せば、穴があったら入りたい失敗ばかりだ。怒ってばかりで、血の気も多かった。思い出すたびに気恥ずかしくなるようなことも少なくない。もうあの頃には戻りたくない。過去ではなく、未来へ進むしかないのだから。

病と向き合い、副作用に耐え、ただ息を潜めるように暮らしていた時期を経て、少しずつ身体を取り戻してきた。

すると、ある日ふと気づく。元気になると、怒る体力まで戻ってくるらしい。

今月に入ってから、理不尽なシステムと大きな組織に振り回され続けていた。以前の私なら、「大人の対応」という便利な言葉で自分を納得させ、小さな怒りを心の底へ沈め、そのまま流していただろう。

しかし、受け流した怒りは消えてくれない。静かに積もっていくだけだ。流し続けるのは、もうやめよう。力を取り戻した今の私には、怒る力も、抗う力もある。とはいえ、本当の怒りを形にするのは途方もなく骨が折れる。

感情をそのままぶつけても伝わらない。何に怒っているのかを整理し、事実を並べ、相手に届く言葉へと言い換え、文章として組み立てていく。

気づけば、半日近くキーボードを叩き続けていた。ヘトヘトだ。しかも全部、英語だ。

それでも、今は少しだけ心強い。

手元のテクノロジーが、感情ではなく論理として文章を組み立てる手助けをしてくれる。結果がどうなるかは、まだわからない。文章を送り終えた今も、身体は疲れ切っている。それでも、後悔はない。

理不尽をそのまま飲み込まず、自分の言葉で向き合った。そのために使った体力なら、惜しくないと思えたからだ。

怒ることにも体力がいる。

昔は、その体力を怒りにばかり使っていた。UCが再燃してからは、その体力さえ失い、怒ることより、生き延びることを優先する毎日だった。

怒りは大人げないことではない。自分を守る力が戻ってきたということなのだ。生きる力は、怒る力でもあるのだ。

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

流行より透き通るもの

前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。

母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。

今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。

その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。

何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。

思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。

ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。

しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。

結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。

父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。

あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。

手間という名の隠し味

梅雨が明け、酷暑が続いている。火を使う料理を億劫に感じ、この季節はどうしてもサラダの出番が増える。

私の定番、小松菜を洗い、食べやすい大きさに切り、ぶつ切りにしたきゅうりを添える。網に入れて冷蔵庫で冷やし、パラパラと海塩を振る。

そして、この夏、何十年ぶりかで再開した儀式がある。きゅうりのアク抜きだ。

両端を切り落とし、その断面同士をくるくると擦り合わせる。しばらくすると、じわじわと白い泡状のアクが浮かび上がってくる。子どもの頃、両親が当たり前のようにやっていたあの所作だ。たったこれだけの手間なのだが、私には、青臭さがやわらぎ、瑞々しさが増したように感じる。 

昔、テレビで見かけた大物歌手の話を思い出す。行きつけの中華料理店のもやし料理についてだ。あまりに美味しく、店主に理由を尋ねたそうだ。答えはシンプルで、もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ手作業で取り除いているから。その話だけは、不思議と何十年たった今でも覚えている。

もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ取る手間に比べれば、きゅうりのアク抜きはほんの一瞬で終わる。

きゅうりの値段は日によって乱高下するけれど、どんなに手頃な食材でも、手をかけることで特別になる。ひと手間を惜しまない日が、案外いい一日なのかもしれない。何気ない毎日であっても、小さな手間を重ねるだけで、少しだけ味わい深くなる。そんな予感が、かすかな希望になる。 

書いていたら、無性にもやし食べたくなってきた。暑いけれど、今夜は、もやし料理に挑戦してみようと思う。

一秒も渡さない

相場よりも高すぎる時給。あるいは、こちらの希望に、あまりにもきれいに寄り添う勤務条件。画面に躍るその言葉は、喉が渇いたときに見せるオアシスの幻影のようだ。

「応募されたポジションは、先ほど埋まりました。ほかのポジションいかがですか」

画面の向こうで担当者が放ったあっけない一言に、頭に上っていた熱が、すっと引いていった。

求人票に心を躍らせ、服を選び、普段より時間をかけて化粧をし、髪を整え、パソコンを立ち上げ、指定された時間を待つ。画面がつながった途端、応募したものとは異なるポジションを勧められた。派遣では本来「面接」とは呼ばないはずなのに、その場では、ごく自然にその言葉が口にされていた。

その出来事は、誰もが知る派遣会社と企業で起きた。私はずっと忘れないだろう。

後に、別の斡旋業者から「おとり求人」というものがあることを聞いた。不動産でも、客を呼び込むためだけの「釣り」があるという。まったく同じ構図だった。

魅力的な餌で人を集め、別のものを差し出す。求職市場のそのやり方に、「現代の女衒」と名づけたことを思い出した。

虚偽や誤解を招く求人は、法令や指針でも問題視されているにもかかわらず、他人の時間を平然と軽んじる罠が潜んでいる。ほんの一瞬の出来事に思えても、不誠実さにさらされた身体は、驚くほど一気に体力を削り取られてしまう。その徒労感は重く、心身の奥深くに響く。

画面を閉じて散歩に出た。その時、強く思った。誰かの不誠実のためにすり減らしていい体力も、不快感に差し出す時間も、自分には一秒だって残されていないのだと。

甘い条件に惑わされたかもしれないが、私という人間の価値まで買い叩けたわけではない。幻の椅子を差し出されたのなら、腰かけずにその接続を切ればいい。

今夜はおいしいものを食べよう。私は、誰の釣り針にもかからない。そのために、今日という一日を、自分の暮らしへ返そうと思った。

鏡の中の二つのパーツ

『人は見た目が9割』という本が売れた時代があったが、大人の第一印象は、もっと単純なのではないか。 

結局、髪のまとまりと眉毛なのだ。

若い頃なら、少し乱れた髪やくせ毛も無造作な魅力で済んだかもしれない。だが、大人になってからの無造作は、下手をするとお疲れ気味に見えてしまう。私は、くせ毛なら潔く短く切るか、ひとつに結ぶくらいが、一番きれいに見える。ソフィア・ローレンのような髪に憧れても、自分の手だけで近づけるには限界がある。勝負の日くらいは、黙って美容師さんに頭を預ける。私自身、量が多く太いくせ毛なので、髪には少々うるさい。18歳から三十年以上通う美容師さんにも、毎回苦労をかけている。

学生時代までは、渋谷や原宿を歩いているだけで、いつの間にかストリートスナップの被写体になっていることがあった。「その髪、どこでやったんですか」と声を掛けられることも少なくなかった。この話は、またいつか。

そして、眉毛。ここにもその人の今が出る。描く前に必要なのは、普段のお手入れである。まずは眉毛サロンへ行ってみてもいい。プロの仕事を知り、土台を整えてから、初めて描く作業に入るのだ。昔雑誌で読んだ、メイクアップアーティストの藤原美智子さんの教えを参考に整えたこともあるが、プロの眉には理屈がある。

モデルや女優さんが美しいのは、写真を撮られる機会が多いからではないかと思う。客観的に自分を見る時間が、人よりずっと長い。実は私は、メイク後の自分や、話している姿を毎日写真に収めよう、と思っているのだが、次の日には忘れてしまう。年齢や性別に関係なく、写真や動画で「他人の目に映る自分」を直視する習慣を持てば、少しずつ変わっていくはずだ。鏡の中のキメ顔ではなく、動く自分を確かめること。

洋服も大事だが、印象を決定づけるのは結局、首から上の始末だ。清潔感という目に見えない気配は、高価な服を着ることではなく、自分のパーツと向き合い、整えるための小さな手間なのだろう。

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社会現象にもなった竹内一郎さんの『人は見た目が9割』(新潮社)
藤原美智子さんのMICHIKO.LIFE「エッセンスブロウペンシル レフィル ナチュラルブラウン

ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

健やかさの残酷

普通の生活を送るには、想像以上の体力がいる。

朝起きる。着替える。食べる。排泄する。風呂に入る。太陽の光を浴びて、日々の糧を得るために働く。そして、他者との関係を維持する。文字にしてしまえばただの日常だが、これらを毎日滞りなくこなすのは、実はとてつもなく骨の折れる作業だ。

私の場合、夜には体力が底をつくことがよくある。健康を維持するため、小分けにしながら毎日五キロ歩くが、「体がきつい」という瞬間がある。夜にうたた寝することもある。私にとって入浴は、休息ではなく体力を使う作業でもある。体も髪も洗い終え、湯船にまで浸かれた日は、それだけで上出来なのである。こういう日は、睡眠も栄養も足りている。また、人さまの仕事に体力を使い切らなかった証拠でもある。すべてを出し切るのが若い時代の働き方というものだが、経験を積んだ大人は、七割に留め、残りの三割は翌日に持ち越す。それがお互いのためなのである。 

カルテは、百戦錬磨の履歴書

私は髪にも肌にも、ほとんどお金をかけない。

髪は長年の付き合いで自分の髪質を知っているし、エステの類も、いつしか自分で手入れするようになった。その前に、よく寝て、食べて、運動して、日光浴をして、湯船に浸かる。これさえ徹底していれば、わざわざ高いサロンに通う必要性も、そもそも行く気すら起きないのだ。

そんな私が、唯一、20年近く投資し続けている場所がある。それは、歯科医院での、定期的な歯のクリーニング(PMTC)だ。

1カ月から3カ月に一度、欠かさず通う。医院の先生は、20年前に開業した私と同い年の男性。そして実務を担当してくれるのは、10年以上の付き合いになる、一学年下の衛生士さんだ。施術中や診察後に3人で交わす、健康の答え合わせのようなおしゃべりも、密かな楽しみになっている。 

そして、その医院で、私のカルテは一番分厚いらしい。

多くの人にとって、痛くなったり、何かが起きてから駆け込むのが、歯科だろう。実際、周囲に聞いても「痛みが限界に達してから行く」という人が多数派だ。何もない平時に20年間通い詰め、プロの目で虫歯や歯周病の芽を摘み続けているカルテは、年々厚くなっていく。 

だが、私には、これがいちばん効率のいい美容法でもある。髪や服は一瞬で着飾れるが、歯の清潔感と健康だけは、一日にして成らず。

また、プロの専門知識と技術を借りて、自分の体をメンテナンスし続けることは、長い目で見れば、結局はいちばん安く済むような気がしている大問題が起きてから高額な治療費が発生するのは、財布にも応える。

カルテの厚みは、20年間、自分の体と付き合ってきた履歴書でもある。院長は、一応、一生診てくれるというし、何かあっても後継者であるご親戚の若い世代が、コピーロボットのように診てくれるらしい。

一般人も歯は命、である。

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本記に出てくる歯科医院でも扱う、知覚過敏にいい歯磨きです。
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手のひらの上の舞台

ソーシャルメディアをはじめとするインターネットメディアの浸透によって、誰もが何かを発信し、披露できる時代になった。

収益になるかどうかは別として、もともと「発信できる場」を作ったり、発信そのものを生業とする会社に身を置いていた私としては、驚かされる。世の中にはこれほどまでに「物申したい」「伝えたい」「私の作ったものを見てほしい」という欲望を抱えた人たちがいたのかと。

しかし、それはネットが新たな欲望を生み出したのではない。人間の底にあった表現への欲が、可視化されただけなのだろう。人は本質的に、発信して披露したい生き物なのだ。

だとしたら、インターネットが出現する以前、彼らはどんな思いで日々を過ごしていたのか。限られた「発信できる場」に立つ人間たちを、どんな目で見つめていたのか。

「発信する側」の業界にいた人間なら、きっと覚えているはずだ。ネット初期のあの「気軽な発信と披露」をすぐには受け入れられなかった、ざらついた空気を。

今のネットメディアは、企業や組織が入り、第三者の目を入れながら作ることが当たり前になった。だが、出たての頃は違った。後ろ盾もなく、ただ個人の熱量だけで発信している人たちのことを、既存の「場」にいたプロたちは、白い目で見ていた。

かつて、音楽、写真、映像、映画、そして活字の世界には、自分のすべてを費やすプロフェッショナルたちがいた。今は、働き方改革や新型コロナ禍を経て、労働時間は短くなっているように見える。ある者は強い正義感から、またある者は純粋な熱中と楽しみから、その身を削るようにして後世に残る記録を生み出していた。それは、表現にすべてを懸けることが許され、それが価値を持った幸福な時代だったのかもしれない。

 

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命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

値札のついた時間

手元の『岩波国語辞典 第八版』を引いてみる。

「口入れ」、奉公人の周旋を職業とする者。「口入れ屋」。この業は一九四七年、法律で禁止。

「桂庵(けいあん)」、雇い人の周旋業(者)。口入屋。現在では、この業は法律で禁止。

「女衒(ぜげん)」、女を遊女に売る周旋を職業とする者。

「口入れ」や「桂庵」は職業安定法によって禁じられ、「女衒」に至っては言うまでもなく人身売買として法で断罪されている。とうの昔に法律で禁じられ、歴史の闇に消えたはずのこれらの業だが、彼らは合法の看板を掛け替え、立派なスーツを着て現代のオフィス街を闊歩している。

2026年6月2日、公正取引委員会が、人材派遣大手5社に対して独占禁止法違反の疑いで立ち入り検査に入った。派遣先に請求する料金をめぐり、価格カルテルを結んでいた、というのだ。外国の報道がどう扱ったかは知らないが、日本のメディアはこれを一斉に報じた。民間企業だから、カルテルと呼ばれているが、要するに、談合である。誰もが知るもう一つの大手企業が名を連ねていなかったのは不思議ではあったが。

そして、このニュースを見ても、私は少しも驚かなかった。

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岩波 国語辞典 第八版

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