出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

カテゴリー: からだと暮らし

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

渇きと祈りの四リットル

私はコーヒーやお茶とは別に、毎日四リットル以上の水を飲む。夏になれば、その量は六リットル近くになる日もある。人に話すと驚かれることが多いが、私にとっては特別なことではない。生きていくための日課である。

家で飲む水は、何本ものボトルに備長炭を沈めている。外出するときは、五百ミリリットルのペットボトル二本にその水を注ぎ入れる。そのままのこともあれば、生理食塩水より塩分濃度が高くならない程度に海塩を加え、ビタミンCの粉末とほんの少しのサッカリンを入れるときもある。私だけの、自家製ポカリスエットである。

外を歩けば、一リットルなどあっという間に飲み干してしまう。出先で水を買い足せば、今度は体内の塩分が薄まる。そんなときは、昔から愛用している乾燥梅干しのタブレットを口に入れたり、小さなボトルに入れた海塩を水へ加えたりして調整する。水代だけでも決して安くはない。それでも、生きるために必要な出費だと思っている。

私には、十五歳から潰瘍性大腸炎(UC)がある。人生の大半をともにしている疾患だ。最近になって、UCは脱水を防ぐため、水分補給がとても大切だという説明をあらためて目にした。言われてみれば、思い当たることばかりだった。また、心臓が急き立てるように脈打つときは、決まって体が水を求めている。塩分を伴わずに水だけを飲みすぎれば、今度は体が余分な水分を外へ出そうとする。

「そんなに飲んで大丈夫なの」と、よく聞かれる。しかし、私は飲む。飲まなければ、生きていけない。

だから、有事で水が止まったときのことが、いつも頭の片隅にある。水の備蓄はしている。それでも、一日にこれだけ飲む人間にとっては、安心できる量とは言い難い。どれほど備えても、不安がなくなることはない。

先日の熊本の地震でも、私の頭に真っ先に浮かんだのは、水のことだった。

知人に、熊本に実家がある人がいる。地震の知らせを聞いてから、ご家族は無事だろうかと気になっていた。だが、本当に大変な状況に置かれているかもしれないと思うと、軽々しく連絡することもできなかった。

今日になり、ご家族の無事を知り、胸をなで下ろした。同時に思ったのは、この暑さの中で水を必要としている人たちのことだった。

健常者も水がなければ命に関わる。まして、病気を抱えている人や高齢者、小さな子どもたちは、どれほど心細い思いをしているだろう。ニュースを聞くたび、そんなことばかり考えてしまう。

無事が確認できた知人は、自身のお店で義援金を募っている。私も、次に店を訪れたときに寄付をしようと決めた。前回のときも、そうしたように。大きなことはできない。それでも、自分にできることを一つずつ積み重ねるしかない。

今日も私は、いつものようにグラスへ水を注ぐ。当たり前に水を飲めることは、当たり前ではない。そう思うだけで、その一杯は昨日より少しだけ重みを増す。

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白と藍の壺の中

子どもの頃から、我が家の食卓には当たり前のようにぬか漬けが並んでいた。母が毎日、ぬか床から上げていた。私は、きゅうりの古漬けが大好きである。

ある夏、両親の郷里である長崎と大分へ、家族で帰省することになった。留守の間、母は官舎で親しくしていた近所の人に、ぬか壺の世話を頼んで出かけた。私の幼なじみのお母さんでもあった。

一週間か二週間ほどして東京へ戻り、母がお土産を手にお礼へ伺うと、思いもよらない話を聞かされた。そのお宅は、急に山形の実家へ帰っていたという。

では、我が家のぬか床はどうなっていたのか。

小母さんは、壺ごと車に積み込み、山形まで連れて行ってくれていたのだった。ご実家でも毎日かき混ぜ、帰りの車にもまた一緒に乗せてくれたそうだ。

今思えば、当時の車は、全く快適ではなかったはずだ。それでも、母から預かったぬか床を連れて行ってくれた。その話になるたび、母は今でも「本当に申し訳なかった」と笑う。

几帳面な母でも、ときにはぬか床をだめにしてしまうことがあった。だが、一から作り直すことはしない。贔屓にしていた新宿の百貨店の漬物売り場へ行き、顔なじみの店員さんに「少し分けていただけないかしら」と頼んで、熟成した種ぬかを分けてもらう。もちろん、ぬか漬け以外の漬物も買っていた。そんなやり取りが自然に成り立つ時代だった。百貨店は、まだ庶民のための店だった。

一人で暮らすようになり、いつの間にか、あの匂いは食卓から消えていた。時おり、無性に食べたくなって八百屋やスーパーで買うこともあったが、子どもの頃から当たり前にあったものが、思いのほか高いことに気がついた。

そんなわけで、去年の夏、ようやく私もぬか漬けを始めることにした。近所の自然食品店で、母が使っていたのと同じぬかを見つけ、種ぬかなしで始めた。

問題は、容器だった。実家にあったような大きな壺は、一人暮らしの身にはあまりに大きい。ネットで調べると、ホーローに入れて冷蔵庫で管理している人が多いようだった。

だが、毎日手を入れるものだからこそ、気に入った器を使いたかった。古美術店を何軒か覗いて歩き、ようやく出会ったのが、白地に濃い藍で梅の枝と人物が描かれた、茶道具の水指だった。「ぬか漬け用なんです」と話すと、店主は少し笑って、勉強してくれた。

あれから、まもなく一年になる。月に二度ほど新しいぬかを足しながら、味もすっかり落ち着いてきた。今の季節なら、ゴーヤやナスを放り込んでおく。水指の蓋を外し、野菜を取り出す。その一連の動きが、いつの間にか私の日常になった。

思うようにいかない日もある。そんなときでも、底からゆっくりとかき混ぜていると、今日の暮らしを育てている気持ちになる。

ぬか床は、急かしても育たない。それでも、手をかけた時間は、味になって返ってくる。それが、私に明日へ向かう力をくれている。

完璧な食卓を降りる

少し前に、母と家事の話になった。

改まって話し込んだわけではない。世間話の流れで、母のまわりにいる高齢者たちの暮らしぶりを聞くことになった。聞けば、皆さん、思っていた以上に合理的だった。冷凍野菜や市販のおかずを上手に取り入れ、中には紙皿や紙コップを日常的に使っている人もいるという。

食材は生協でまとめて買い、何でも手作りしていた母でさえ、最近は生協の冷凍おかずを買うことがあるらしい。餃子がおいしいらしい。現在どこの生協を利用しているかは聞きそびれた。

もうすぐ卒寿を迎える父は、食卓に紙皿や紙コップが並ぶのを好まない。だから母自身は使わない。それでも私には、こう言った。「やってみたら。少しは家事が楽になるかもしれないわよ」

母は分かっている。私の毎日の忙しさも、体に抱えているものも。あれは、母なりの、完璧を目指さなくていい、という許可だったのだと思う。

私は十五歳で潰瘍性大腸炎を発症した。以来、水分補給は暮らしの中心にある。毎日四リットル以上の水と海塩を摂るのが私のルールで、特に夏は、コップや水筒を洗っても洗っても、また洗う時間がやってくる。夏が来るたびに、うんざりしていた。

母の言葉を聞いた私は、さっそく近所の百円ショップへ向かった。まずは紙皿と紙コップを一袋ずつ買ってみる。食事を載せると、その軽さに思わず落としそうになった。

今は近所の店を回りながら、厚みや強度を比べて、お気に入りを探している最中である。気に入った品ほどなぜか定番にならないようで、次に行くと棚から姿を消していることもある。それでも、いいものが見つかれば、まとめて買うつもりだ。

もちろん、ゴミは増える。以前、洗い物を減らしたくて五百ミリリットルのペットボトルの水を大量に買っていたことがあった。しかし、積み上がるプラスチックを前にすると、どうしても気持ちが落ち着かなかった。ところが、不思議なことに、紙皿や紙コップには同じ罪悪感を覚えない。

「紙だから」

たったそれだけの、自分勝手な理屈である。それでも、その小さな理屈のおかげで、私の心は少し軽くなった。

コップを洗う回数が減り、食後の皿洗いも減る。毎日の家事は軽くなった。

習慣というものはなかなか変わらず、気が付けばいつもの愛用のコップやどんぶりを使っている時もある。それでも、シンクに立つ時間は、少しずつ短くなっている。

紙コップと紙皿を折ってゴミ箱へ入れるたび、完璧な暮らしを続けることよりも、今日を無事に終えられることのほうが大切なのだ。母が許してくれたのは、紙皿ではない。完璧でいようとする私なのである。

巨万の富と、ひと握りの青菜 

私には、長年の人体実験によって導き出した食事のルールがある。

十五歳で発症した潰瘍性大腸炎。主治医は何を食べても構わないと言うし、この病気が食べ物だけで左右されるわけでもない。それでも私は、不調をきたすものを、少しずつ食卓から遠ざけてきた。好物もその例外ではない。

陸生哺乳類の肉は食べず、葉野菜は、アブラナ科のものを選ぶことが多い。小松菜、水菜、チンゲン菜などである。同じアブラナ科でも、ブロッコリーは食べるが、キャベツや辛味の強いものは口にしない。

真夏になると、できるだけ火を使いたくない。使うとしても、ほんの数分で終わるものがいい。そんな夏に決まって作るものがある。「本多静六のホルモン漬け」だ。

本多静六は、日比谷公園をはじめ全国の公園を手がけた「公園の父」である。薄給から巨万の富を築いた人物としても知られている。晩年まで、かくしゃくとして過ごした彼が実践していたというのが、植物の新芽などをきれいに洗って塩漬けにする、独自の「ホルモン漬け」だった。

さすがに八百屋やスーパーで新芽ばかりを買い揃えるのは難しいので、これを自分流にアレンジしている。小松菜や水菜、時にはチンゲン菜を細かく刻み、塩を振って一晩おく。そして食べる直前にたっぷりの水で洗い、ギュッと絞る。それだけだ。塩は、平釜製法の海塩を使う。

昆布も、だしも使わない。ただの葉野菜と塩だけなのに、不思議なくらいおいしい。本多翁は炊き立てのご飯にのせて食べていたという。私はそのままつまんだり、米粒の形をした小さなパスタにたっぷりのせたりして食べる。

最後に、気に入っている三年醸造の醤油を少しと、サラダ油かぶどう油をかける。あっさりとした塩気にほどよいコクが加わり、それだけで十分な一食になる。

根元の泥を落とすために葉の隅々までていねいに洗わなければならないし、細かく刻む手間もかかる。それでも、火を使わずに済むというだけで、夏の台所では楽なのである。米粒のパスタも、そうめんほどの時間で火が通る。

制約があるからこそ、たどり着ける食卓がある。青菜を刻み、塩をまぶしていると、この身体にはこのからだの暮らし方があるのだと思う。それは、夏を健やかに過ごすための、小さな知恵なのである。

 

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快適と停滞

最近、三十九円のピーマンで半日を棒に振った。その日はどうしても、油揚げとピーマンを軽く炒めたものが食べたかった。最近の私は油揚げに凝っている。どうやら油揚げというものは、素材がよく、それなりに値の張るもののほうがおいしいらしい。

本当は、ししとうで作りたかった。しかし、私には刺激が強すぎるかもしれないと思い、スーパーで安売りされていた三十九円のピーマンを手に取った。

安かったことが問題だったわけではない。長年の経験で、自分にはピーマンが合わないことを知っている。それでも、食べたかったのである。おいしかった。

食後しばらくして、唇がビリビリとしびれ始めた。嫌な予感がした。気持ち悪さがじわじわと押し寄せた。血圧計を見なくてもわかる。長年付き合ってきた低血圧の体は、危険信号の出し方を私に教え込んでいる。慌てて正露丸を一粒飲み込んだ。

喉が痛いときも、鼻の調子が悪いときも、私はとりあえず正露丸を飲む。潰瘍性大腸炎には効かないことも、医学的には正しい対処ではないことも承知している。それでも手が伸びるのは、父の影響だ。

父は、大学を卒業してから定年まで勤め上げ、その後も八十歳まで働き続けた。突然体調を崩して仕事を休むような人ではなかったが、熱が出ると決まって正露丸を飲んでいた。その姿を見て育った私は、この十年ほど、父の癖をそのまま受け継いでいる。

もっとも、今回ばかりは正露丸も歯が立たなかった。寝不足も重なり、私は半日横になって過ごすことになった。

私には、食べ物についていくつものルールがある。それは本やインターネットで覚えた知識ではない。何十年もの失敗を重ね、体を張って覚えた経験である。ピーマンも、その一つだった。

ルールというものは、思いつきでは作れない。痛い目を見て、失敗を繰り返し、その経験が体に刻み込まれて初めて、自分だけのルールになる。そして、そのルールを守り続けることで、やがてルーティンになっていく。

今、私は余暇のほとんどを、このブログの構築に注ぎ込んでいる。更地に家を建てているわけではない。二〇一三年から二〇一八年頃まで本格的に書いた記事や、その後、二〇二一年八月まで細々と続けていた投稿はすでに下書きにしていたが、手を入れながら作り直している。WordPress.orgの投稿を、一つひとつ読み返すことはない。膨大、その余裕がない。 

しかし、宣伝用に無料ブログを利用していたことで、タイトルなどは見ることになる。恥ずかしい。

それでも、過去の自分と向き合うたび、不思議と目は未来へ向く。

近年、時間は過去から未来へ流れていくものではなく、未来から現在へやって来るものなのではないかと思うようになった。だから未来は、待つものではない。迎える準備をするものなのだ。

ぬくぬくと快適な場所に居続けることは心地いい。だが、その快適さは、ときに人を停滞させる。

十三年前、出版社を辞めたときも、同じような思いがあった。会社が続く限り、定年まで働くことはできただろう。それでも私は、その先の自分を想像したとき、このままでは立ち止まってしまう気がした。

新しいことを覚え、小さな目標を立て、一つずつ越えていく。今いる場所の外へ出る作業は、体力も気力も使うし、決して楽ではない。

それでも、このブログを整える時間、書く時間は、楽しい。過去を片付けることは、未来を迎える準備でもあるし、執筆は、自分に向き合える。

三十九円のピーマンで半日を失った私は、また一つ、自分のルールを思い出した。

秘密のまま閉じる

心が落ち着かない時、人はどうにかして、自分でコントロールできる小さなことを探し始めるらしい。

私の場合は、有料無料を問わず使わなくなったサーヴィスの解約と、長らく放置していたWebサイトの閉鎖作業だった。

Webサイトの閉鎖は、自分で立ち上げたものだからこそ、根気がいる。中身を取り出し、サーヴァーやドメインの契約も整理していく。ガイダンスはないから、自分で箇条書きしたものを埋めていく。 

本来なら、普段からデータのバックアップをスプレッドシートにまとめておくべきだったのだ。それすらしていなかった私は、最初は、プラグインを使って一括で引っ張り出そうとした。しかし、こういう時に限ってうまくいかない。結局はひとつずつ画面を開き、手作業で確認しながら進めることになった。 

最後のサーヴィスの解約のボタンを押した。

押した瞬間は、何も感じなかった。達成感も後悔もない。しかし、パソコンを閉じてしばらくすると、遅れてじわじわと寂しさが込み上げてきた。ああ、本当に終わらせてしまったのだなと。

閉鎖を決めたのは、「16 pages(16ページ)」というサイトだ。

立ち上げるときは、URLの候補を五十個ほどノートに書き出し、ひとつずつドメインの空き状況を調べた。インターネットが当たり前になって久しい今、まともな英単語や短いフレーズは、もうほとんど使われている。半ば諦めながらノートを眺めていた時、ふと浮かんだのが、その名前だった。

十六ページ。印刷や製本に携わったことのある人なら、ピンとくる数字だ。一枚の紙を折り重ねて作る「折丁(おりちょう)」は、多くの場合、十六ページ単位で構成される。本という大きな物語を形づくる、基本となるひとかたまりである。

その名前の由来を話したのは、ごく親しい友人三人だけだった。テック業界で働く二人は「すごく素敵じゃない」と目を輝かせてくれた。出版業界にいるもう一人の友人は、「その意味が分かる人は、そんなに多くないと思うよ」と笑った。

あまりにも現実的な一言に、私も思わず苦笑いした。

それなら、この由来は自分だけの秘密にしておこう。そう決めて、サイトにも書かず、SNSでも一度も触れなかった。秘密は、そのまま持ち続けるつもりだった。

ところが、その頃から、目の前の暮らしを回すだけで精一杯の日々になった。だいぶ前、占い師の友人が「この時期は大変になるわよ」と言っていたのを思い出す。渦中にいるときは気がつかないが、振り返れば、確かにそういう星回りの時期だったのだろう。サイトを更新する余裕などどこにもなく、いつか立て直そうと思いながら、時間だけが過ぎていった。 

自分の力ではどうにも動かせない現実の焦りから逃げるように、私はつい先日、自分の手で、そのサイトに幕を引いた。

まもなく、「16 pages(16ページ)」は見られなくなる。

誰にも話さないまま終わらせるつもりだった名前の由来を、消えるいまになって初めて書いている。我ながら、勝手なものだと思う。

自分では変えられないことは、世の中にいくらでもある。その小さな終わりは、次の一枚をめくるための始まりなのだ。

 

生きる力、怒る力

怒るのは、とにかく体力を使う。だからここ十年ほど、私のスタイルは、流すことだった。

若い頃を思い返せば、穴があったら入りたい失敗ばかりだ。怒ってばかりで、血の気も多かった。思い出すたびに気恥ずかしくなるようなことも少なくない。もうあの頃には戻りたくない。過去ではなく、未来へ進むしかないのだから。

病と向き合い、副作用に耐え、ただ息を潜めるように暮らしていた時期を経て、少しずつ身体を取り戻してきた。

すると、ある日ふと気づく。元気になると、怒る体力まで戻ってくるらしい。

今月に入ってから、理不尽なシステムと大きな組織に振り回され続けていた。以前の私なら、「大人の対応」という便利な言葉で自分を納得させ、小さな怒りを心の底へ沈め、そのまま流していただろう。

しかし、受け流した怒りは消えてくれない。静かに積もっていくだけだ。流し続けるのは、もうやめよう。力を取り戻した今の私には、怒る力も、抗う力もある。とはいえ、本当の怒りを形にするのは途方もなく骨が折れる。

感情をそのままぶつけても伝わらない。何に怒っているのかを整理し、事実を並べ、相手に届く言葉へと言い換え、文章として組み立てていく。

気づけば、半日近くキーボードを叩き続けていた。ヘトヘトだ。しかも全部、英語だ。

それでも、今は少しだけ心強い。

手元のテクノロジーが、感情ではなく論理として文章を組み立てる手助けをしてくれる。結果がどうなるかは、まだわからない。文章を送り終えた今も、身体は疲れ切っている。それでも、後悔はない。

理不尽をそのまま飲み込まず、自分の言葉で向き合った。そのために使った体力なら、惜しくないと思えたからだ。

怒ることにも体力がいる。

昔は、その体力を怒りにばかり使っていた。UCが再燃してからは、その体力さえ失い、怒ることより、生き延びることを優先する毎日だった。

怒りは大人げないことではない。自分を守る力が戻ってきたということなのだ。生きる力は、怒る力でもあるのだ。

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

手間という名の隠し味

梅雨が明け、酷暑が続いている。火を使う料理を億劫に感じ、この季節はどうしてもサラダの出番が増える。

私の定番、小松菜を洗い、食べやすい大きさに切り、ぶつ切りにしたきゅうりを添える。網に入れて冷蔵庫で冷やし、パラパラと海塩を振る。

そして、この夏、何十年ぶりかで再開した儀式がある。きゅうりのアク抜きだ。

両端を切り落とし、その断面同士をくるくると擦り合わせる。しばらくすると、じわじわと白い泡状のアクが浮かび上がってくる。子どもの頃、両親が当たり前のようにやっていたあの所作だ。たったこれだけの手間なのだが、私には、青臭さがやわらぎ、瑞々しさが増したように感じる。 

昔、テレビで見かけた大物歌手の話を思い出す。行きつけの中華料理店のもやし料理についてだ。あまりに美味しく、店主に理由を尋ねたそうだ。答えはシンプルで、もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ手作業で取り除いているから。その話だけは、不思議と何十年たった今でも覚えている。

もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ取る手間に比べれば、きゅうりのアク抜きはほんの一瞬で終わる。

きゅうりの値段は日によって乱高下するけれど、どんなに手頃な食材でも、手をかけることで特別になる。ひと手間を惜しまない日が、案外いい一日なのかもしれない。何気ない毎日であっても、小さな手間を重ねるだけで、少しだけ味わい深くなる。そんな予感が、かすかな希望になる。 

書いていたら、無性にもやし食べたくなってきた。暑いけれど、今夜は、もやし料理に挑戦してみようと思う。

鏡の中の二つのパーツ

『人は見た目が9割』という本が売れた時代があったが、大人の第一印象は、もっと単純なのではないか。 

結局、髪のまとまりと眉毛なのだ。

若い頃なら、少し乱れた髪やくせ毛も無造作な魅力で済んだかもしれない。だが、大人になってからの無造作は、下手をするとお疲れ気味に見えてしまう。私は、くせ毛なら潔く短く切るか、ひとつに結ぶくらいが、一番きれいに見える。ソフィア・ローレンのような髪に憧れても、自分の手だけで近づけるには限界がある。勝負の日くらいは、黙って美容師さんに頭を預ける。私自身、量が多く太いくせ毛なので、髪には少々うるさい。18歳から三十年以上通う美容師さんにも、毎回苦労をかけている。

学生時代までは、渋谷や原宿を歩いているだけで、いつの間にかストリートスナップの被写体になっていることがあった。「その髪、どこでやったんですか」と声を掛けられることも少なくなかった。この話は、またいつか。

そして、眉毛。ここにもその人の今が出る。描く前に必要なのは、普段のお手入れである。まずは眉毛サロンへ行ってみてもいい。プロの仕事を知り、土台を整えてから、初めて描く作業に入るのだ。昔雑誌で読んだ、メイクアップアーティストの藤原美智子さんの教えを参考に整えたこともあるが、プロの眉には理屈がある。

モデルや女優さんが美しいのは、写真を撮られる機会が多いからではないかと思う。客観的に自分を見る時間が、人よりずっと長い。実は私は、メイク後の自分や、話している姿を毎日写真に収めよう、と思っているのだが、次の日には忘れてしまう。年齢や性別に関係なく、写真や動画で「他人の目に映る自分」を直視する習慣を持てば、少しずつ変わっていくはずだ。鏡の中のキメ顔ではなく、動く自分を確かめること。

洋服も大事だが、印象を決定づけるのは結局、首から上の始末だ。清潔感という目に見えない気配は、高価な服を着ることではなく、自分のパーツと向き合い、整えるための小さな手間なのだろう。

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健やかさの残酷

普通の生活を送るには、想像以上の体力がいる。

朝起きる。着替える。食べる。排泄する。風呂に入る。太陽の光を浴びて、日々の糧を得るために働く。そして、他者との関係を維持する。文字にしてしまえばただの日常だが、これらを毎日滞りなくこなすのは、実はとてつもなく骨の折れる作業だ。

私の場合、夜には体力が底をつくことがよくある。健康を維持するため、小分けにしながら毎日五キロ歩くが、「体がきつい」という瞬間がある。夜にうたた寝することもある。私にとって入浴は、休息ではなく体力を使う作業でもある。体も髪も洗い終え、湯船にまで浸かれた日は、それだけで上出来なのである。こういう日は、睡眠も栄養も足りている。また、人さまの仕事に体力を使い切らなかった証拠でもある。すべてを出し切るのが若い時代の働き方というものだが、経験を積んだ大人は、七割に留め、残りの三割は翌日に持ち越す。それがお互いのためなのである。 

カルテは、百戦錬磨の履歴書

私は髪にも肌にも、ほとんどお金をかけない。

髪は長年の付き合いで自分の髪質を知っているし、エステの類も、いつしか自分で手入れするようになった。その前に、よく寝て、食べて、運動して、日光浴をして、湯船に浸かる。これさえ徹底していれば、わざわざ高いサロンに通う必要性も、そもそも行く気すら起きないのだ。

そんな私が、唯一、20年近く投資し続けている場所がある。それは、歯科医院での、定期的な歯のクリーニング(PMTC)だ。

1カ月から3カ月に一度、欠かさず通う。医院の先生は、20年前に開業した私と同い年の男性。そして実務を担当してくれるのは、10年以上の付き合いになる、一学年下の衛生士さんだ。施術中や診察後に3人で交わす、健康の答え合わせのようなおしゃべりも、密かな楽しみになっている。 

そして、その医院で、私のカルテは一番分厚いらしい。

多くの人にとって、痛くなったり、何かが起きてから駆け込むのが、歯科だろう。実際、周囲に聞いても「痛みが限界に達してから行く」という人が多数派だ。何もない平時に20年間通い詰め、プロの目で虫歯や歯周病の芽を摘み続けているカルテは、年々厚くなっていく。 

だが、私には、これがいちばん効率のいい美容法でもある。髪や服は一瞬で着飾れるが、歯の清潔感と健康だけは、一日にして成らず。

また、プロの専門知識と技術を借りて、自分の体をメンテナンスし続けることは、長い目で見れば、結局はいちばん安く済むような気がしている大問題が起きてから高額な治療費が発生するのは、財布にも応える。

カルテの厚みは、20年間、自分の体と付き合ってきた履歴書でもある。院長は、一応、一生診てくれるというし、何かあっても後継者であるご親戚の若い世代が、コピーロボットのように診てくれるらしい。

一般人も歯は命、である。

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本記に出てくる歯科医院でも扱う、知覚過敏にいい歯磨きです。
オーラルケア アパシールド ホームケア

命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

平均寿命に、十歳を足して

元気に長生きする。そう決めて、生きている。

2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。

ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。

赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。

異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。

私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。

後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。

発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。

それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。

7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。

地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。

そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。

不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。

その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。

そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。

だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。

出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。

だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。 

歩くことは、私の美容法

毎日、5キロ以上歩く。雨の日も風の日も歩く。距離が延びることもあれば、4キロを切る日もあるが、歩くことをやめない。 

通勤を伴う仕事に就いていれば、ここまで距離を意識する必要はない。そうではないから、自分の中でルールを設定している。 

郊外で暮らし、出版社に勤務していた頃は、毎日10キロ近く歩いていた。日中は、書店や取次を回るなど、歩くことが仕事の一部でもあった。退職後、ほかの業界の仕事をやるようになったが、自宅から最寄り駅までは2キロ近くあった。時間通りに来ないバスを待つよりは歩いたほうが早く、結果として、歩く生活は続いていた。

その後、15歳で発症した潰瘍性大腸炎(UC)が再燃した。1カ月強の自宅療養に続き、1カ月半の入院生活。退院を迎えたとき、私の筋肉量は、80代以上にまで落ち込んでいた。一度、床に座ると、一人では立ち上がれず、階段の段差は、介助なしには上がれない身体になっていた。

実家に頼り、日常生活を取り戻す日々が始まった。最初のリハビリは、家事の一つである調理だった。しかし、20分台所に立つだけで消耗し、横になってはまた起き上がり、料理をして食べるというありさまだった。

「人は老いると、こんなふうに動けなくなるのか」。人生の終盤に訪れるはずの身体の衰えを、私は予定よりずっと早く体験した。厄介なことに、ステロイド治療の影響で、気だけは大きくなっていた。気持ちに身体がついていかず、怪我をしやすい時期でもあった。

退院間際、理学療法士からは、寝込んだ期間の3倍が、体力を回復させるために必要な時間であると聞いた。寝込んでいたのは、約80日。つまり、240日後には元の体力が戻る計算になる。私はその言葉を頼りに、肉親に付き添ってもらいながら、家の周りを少しずつ歩くようにした。

よく寝て、よく食べて、少しずつ家事の幅を広げていった。ステロイドの副作用で、かつらが必要なほど髪の毛が抜け落ちる中でも、歩く距離を少しずつ伸ばし続けた。やがて体重も筋肉量も増え、体力がついてきた。自宅でできる、自分の身体に合った範囲での経済活動も徐々に始められるようになった。その頃には、240日ほどが経過していた。

それでも万全ではない。ようやく髪が生えてきたと思えば、ステロイドの新たな副作用が出てくる。基本的には、いつもぐったりとしていた。このままでは生きていけないと思った。

そんな時、アメリカの進化生物学者、ダニエル・E・リーバーマンの『人体六〇〇万年史』(早川書房)に出会った。その中で、アフリカの狩猟採集民族の一日の歩行距離について触れられている一節があった。「これだ」と思った。女性は一日に7〜9キロほど歩くことを前提に進化してきた。

それからの数年間、私は毎日7キロを目標に歩き続けた。すると、ステロイドの副作用で極端に落ち込んでいた血圧が、元通りの低血圧の数値にまで戻ってきたのである。

やがてフルタイムで働けるまでに回復すると、毎日7キロ歩くための時間を捻出するのは難しくなった。そこで「コンスタントに5キロ」という新しいルールを設定した。

以降、UCの得体の知れない合併症がいつ襲ってくるかという不安は常にあるものの、大きな病気をすることなく日々を過ごせている。

介助なしで歩き、身体の機能を保つこと。私にとって「歩くこと」は、命をつなぐためのリハビリから始まり、今では自分にとっての最高の美容法にもなっている。健康こそ美なのだ。

 

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『人体600万年史(上):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)
『人体600万年史(下):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)

私が私でいるための、食卓の境界線

このブログは、約5年ぶりに再開した。2021年8月を最後に投稿をやめていたが、本格的な更新をしていた2018年2月までは、自分が15歳で発症した潰瘍性大腸炎(以降、UC)のことや、2016年に再燃したときの闘病などについて書いていた。

UC自体は、極端な肉体疲労と睡眠不足がセットになるとよくない症状が出るものの、おかげさまで今は落ち着いている。つい忘れがちになるが、薬もきちんと服用している。というのも、万が一、入院になったとき、服薬を続けていないと、現場の先生方にも負担をかけてしまうことを、2016年の再燃時によく思い知ったからだ。私は発症から7、8年後以降、およそ20年、自己判断で薬を飲まずに過ごしていた。

UCには食の制限があるとしばしば指摘される。だが、私の主治医は、寛解期であれば「体調を崩さないものなら、何でも食べていい」とおっしゃる。

これまでの人生のほとんどを難病とともに歩んできた私は、長年、自分の体で試行錯誤を重ねた末に、あるルールを作った。このルールに沿ってさえいれば、私は極めて快適に過ごすことができる。もちろん、飲食を軸とした人間関係は狭まる。それでも、こんな私のルールを受け入れ、交遊してくれる人たちが多くいることは、本当にありがたいことだ。

そのルールは一度に書ききれるものではないので、今後少しずつ触れていくつもりだが、基本となるのは次のようなものだ。

あくまで、私の場合ではある。

毎日、水を4リットル以上飲み、海塩を20g以上、タンパク質を50g以上摂る。それから、キャベツと辛味のあるものを除いたアブラナ科の葉野菜などを中心に野菜を300g以上、リノール酸を多く含む油を60gほど。離乳期に最初に食べた穀類とは別の、小麦粉製品を食べるようにしている。逆に、食べないものはたくさんあるし、年に数度しか口にしないものも数多くある。陸にいる哺乳類の肉も、外食でエキスが体内に入ることはあるかもしれないが、自ら進んで食べることはない。

この食卓の話には、まだ続きがある。

【訂正】本文中の野菜の記述に誤りがありました。キャベツと辛味のあるものは食べません。お詫びして訂正します。(2026年8月3日追記)

おいしくなりますように

朝起きてやることの一つが、コーヒーをいれることだ。豆の銘柄よりも大事にしていることがある。

好みは、ドイツの普通のスーパーで売られているコーヒーや、昔の珈琲館のブレンドの味だ。そのあたりの話はいつか書くとして、私が求めるのは、とにかく苦くて渋い味だ。

スーパーで売られている、苦みの強い、しかも粉になっているものを買う。おいしいとされるコーヒーの入れ方は、ソーシャルメディアで次々と流れてくるけれど、正直時間がかかる。そういった入れ方をしたコーヒーは、お金を出して専門店で飲んだほうがいい

代わりにやっていることがある。8年か9年前、大学病院の待合室のテレビでNHKが流れていた。コーヒー好きの女優さんが出ていた。こだわりなどを話していたのだが「とにかく心をこめていれます。おいしくなりますように」というようなことを言っていた。

このやり方を入れることにした。

お湯を注ぎながら、「おいしくなりますように」と念じる。そうすると、あら不思議。本当においしい。一方で、この「おいしくなりますように」は意識的にやることなので忘れてしまう。これまたあら不思議。どこか物足りない一杯になる。朝から損をした気分になる。 

いただきものの創業何十年になる有名コーヒー豆店や、チェーン店で扱う少し高めの豆ですら「おいしくなりますように」と思わないと、本当においしくならないのだ。精神論のような話だが、「おいしくなりますように」と思うことで、お湯の温度や注ぎ方、カップの温め方まで、自然とていねいになるのかもしれない。心をこめるとは、特別な技術ではない。ほんの数秒、「おいしくなりますように」と思うだけで、一杯は変わる。

私は今日も、その一杯から一日を始める。

美容は、鏡の前より、床にある。

今後、高級美容液は必須、と言い出すことがあるかもしれないけど、団塊ジュニア世代に生まれた私が、生きていて気がついたことの一つに「十分な睡眠をとり、水分とミネラル、適切な栄養を摂取する。そして運動と日光浴を毎日していれば、洗顔石けんと多少の油分以外、顔用の基礎化粧品はいらない」ということがある。これは、数々の消費と実験を繰り返して行き着いた結論だ。基礎化粧品は、日々の暮らしを整えた先にある、おまけだと思っている。 

10年前、長年の憧れだった「化粧水と乳液と美容液を使わない」への移行に成功した。1カ月くらい何もつけない生活をしてみると、最初はカサカサするが、3週間目あたりからスベスベになると聞いていた。何度も挑戦していた。でも、普通の生活を送っていると、初期の荒れた肌を人に見せることはできず、そのたびに挫折していた。

だが幸か不幸か、持病による長期入院と、その後の介助ありの生活が訪れたことで、強制的に、その実験を行うチャンスを得た。睡眠時間も8時間以上確保した。聞いていたとおり、肌は落ち着いていった。そして、あれこれ買わず、つけない生活が始まった。肌もすっかり慣れた。現在は、せっけんとセリンを中心に過ごしている。

今の健康な状態であっても、8時間は横になって、7時間以上寝ないと夜まで体がもたない。5-6時間が3日も続くと、子どもの頃からのアトピーがでたり、持病の症状顔を出したりする。私の場合、アトピーは「超」がつくほどの危険信号だ。だからこそ、睡眠不足の予兆を感じたら原因を排除する。やめられることはやめ、断れることは断る。 

8時間ベッドで過ごすということは、何かを削ることにはなる。でも、私にとって睡眠は美容以前に生きる土台だ。

美容は、鏡の前より、床にある。

 

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四畳半の書棚と、耳から読む本

私はアマゾンのAudible(オーディブル)という、月額制のサーヴィスの音声書籍をよく利用する。なぜ「よく」になるかというと、翌月、聞く時間が取れないとわかっているときは、いったん退会するからだ。

何年も前に初めて利用した時は、配信タイトルが少なかった。試しにダウンロードした、日本語版を熟読していたフランス人著者の社会科学系の英語の本は、朗読者の声がかすれてきて、聞くに耐えられなかった。日本語のタイトルにも限りがあった。ファンではないが、ビジネス系というか自己啓発系の、ある本も聞いてみた。読み手は著者だった。その著者はライターを使って本を書くことを公言していた。どうしても本人の言葉として聞こえてこなかった。さらに、この方は媒体で標準語を話そうとしているのはよくわかっていたのだけど、朗読となると、出身地のイントネーションが丸出しになっていた。私は東京で生まれ育ったが、その土地の方言やイントネーションやアクセントをよく知っている。ファンでなく、むしろ好きではない人だが、一生懸命読んでいる分、聞いていてしんどくなってしまった。数分で聞くのをやめ、サーヴィスを停止した。

その後に利用を再開すると、プロによる朗読が増えていた。タイトルも増え、数年前から今にかけて、さらにいろいろな作家や文筆家の本が聞けるようになっている。

私は、家事をやりながら聞いている。なんらかの理由で避けていた古典、読もうと思っていたのに忘れていたもの、紙の本で何度も読んだものなどを、1.5倍速くらいにして聞く。長編や上下巻ものでもあっという間に聞き終わる。時々、この書き手にはこの朗読者の声は合わないのではというものもあるが、発声の訓練をした人たちは、やはりうまい。特に、ヴェテランの俳優さんや女優さんが読む小説はとてもいい。AIが読んでいるものもあるが、だんだんと賢くなっていて、不快ではない。でも人間の声のほうが好みではある。

Audibleを利用するのは、読書の習慣があり、かつ音声で本を聞ける環境にある人たちなのだろう。玉石混交のコンテンツに囲まれる昨今、出版社が発行する本にプロの朗読で触れられるとは、贅沢な時代になったものだ。

物心がついた時に視界に入ってきたものは、母と父の姿と、平屋の木造官舎の二間のうちの四畳半を三方から囲むスチール製の本棚だけだった。読書中は、ほんの短い時間でも、本に囲まれた空間ができる。耳から聞く本もまた同じである。

 

のぞいてみてください。
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Audible(オーディブル)

日記は、誰にも見せない

ある時から手書きで日記をつけるようになった。

それまでは、不定期に、紙のノートや、誰にも見せないデジタル媒体に何かを綴っていたが、記録は統一した方がよいと思ったし、デジタル媒体には、常に第三者の存在を意識せざるを得ない。デジタル媒体の向こうには、常に「誰か」がいる。

日本全国の文房具店で扱う昔からある小さめの大学ノートに、「誰か」を気にせず、書くことにした。

前日の事実だけを淡々と記すこともあれば、喜びや怒りを書くこともある。その日の大切な予定を忘れないためにメモすることもある。とにかく、その時思ったことや考えついたことを書く。

日記には、デジタル化していないことがたくさんある。私が死んだら、すぐに発見されて、多少の資料にはなるかもしれない。読みづらい字かもしれないけど。

ペンは、いろいろ試したところ、定番として使うノートには、インクの滑りがいいものが良いことがわかった。気に入って使っているものがある。

書く時間は、朝である。

理想は、起床し、コーヒーをいれ、顔だけ洗って、スマホも見ずに、パジャマのままで20分くらいかけて書くこと。

しかし、日々の忙しさのなかで、こういったことは時々しかできない。

現実は、起きて、身近な人からの連絡チェック、コーヒーをいれながら身支度、散歩(スマホを見ながら)、洗濯と掃除、ヨガ、日記に1-2分、仕事の準備、という流れになる。

日記に1-2分は短いようで長い。でも、いろいろなことが書ける。すっきりする。本当は夜に書くのがいいのかなと思いつつ、とりあえず朝だけ書く。

手書きの日記は、私にとって記録であると同時に、頭と心を整理する時間でもある。

だから今日も、朝、ノートを開く。

 

朝の時間に使っている、定番のノートとペンです。
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