出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

カテゴリー: メディアと社会

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

年に一つは、新しい道具を

このブログで公開した投稿をnote用に再編集して公開することを始めた。極力毎日更新するとあちらに書いたが、noteは、少しゆるくやっていこうと思っている。

あまりに素っ気ないのもどうかと思い、サイトに少しずつ飾り付けに手を付けることにした。まずはバナーである。

ペイントやGIMPといった画像ソフトなら、それなりに使える。デザイナーではないから毎日のように触るわけではないにせよ、一通りの技能はある。だが今回は、今どき人気の「Canva」を使ってみることにした。

開いてみると、画面がいかにも今時っぽい。重厚感がない。どこまでも軽い感じ。出来上がればそれでいいのだが、この「軽い、軽いんだよ」という感覚に、戸惑った。

サクッと終わるだろうと高を括っていたのが間違いだった。わからないところを調べたり聞いたり、いざnoteに設定してみても思うように反映されず、結局また最初から作り直す羽目になった。疲れてしまった。新しい道具というのは、頭の体操を要求してくる。

出来上がったバナーは、素人臭さが抜けない。一流のデザイナーたちの完璧な仕事を見てきた私の目には、はっきりとわかる。とはいえ、無料で作ったのだし、目的さえ伝わればそれでいいと割り切ることにした。

私は普段、新しいツールには慎重な方だ。LINEやWhatsAppといったチャットアプリの類は、世に出始めた2010年前後から、直感的に、これは使ってはいけないツールと嗅ぎ取り一切使っていない。 

一秒も渡さない

相場よりも高すぎる時給。あるいは、こちらの希望に、あまりにもきれいに寄り添う勤務条件。画面に躍るその言葉は、喉が渇いたときに見せるオアシスの幻影のようだ。

「応募されたポジションは、先ほど埋まりました。ほかのポジションいかがですか」

画面の向こうで担当者が放ったあっけない一言に、頭に上っていた熱が、すっと引いていった。

求人票に心を躍らせ、服を選び、普段より時間をかけて化粧をし、髪を整え、パソコンを立ち上げ、指定された時間を待つ。画面がつながった途端、応募したものとは異なるポジションを勧められた。派遣では本来「面接」とは呼ばないはずなのに、その場では、ごく自然にその言葉が口にされていた。

その出来事は、誰もが知る派遣会社と企業で起きた。私はずっと忘れないだろう。

後に、別の斡旋業者から「おとり求人」というものがあることを聞いた。不動産でも、客を呼び込むためだけの「釣り」があるという。まったく同じ構図だった。

魅力的な餌で人を集め、別のものを差し出す。求職市場のそのやり方に、「現代の女衒」と名づけたことを思い出した。

虚偽や誤解を招く求人は、法令や指針でも問題視されているにもかかわらず、他人の時間を平然と軽んじる罠が潜んでいる。ほんの一瞬の出来事に思えても、不誠実さにさらされた身体は、驚くほど一気に体力を削り取られてしまう。その徒労感は重く、心身の奥深くに響く。

画面を閉じて散歩に出た。その時、強く思った。誰かの不誠実のためにすり減らしていい体力も、不快感に差し出す時間も、自分には一秒だって残されていないのだと。

甘い条件に惑わされたかもしれないが、私という人間の価値まで買い叩けたわけではない。幻の椅子を差し出されたのなら、腰かけずにその接続を切ればいい。

今夜はおいしいものを食べよう。私は、誰の釣り針にもかからない。そのために、今日という一日を、自分の暮らしへ返そうと思った。

鏡の中の二つのパーツ

『人は見た目が9割』という本が売れた時代があったが、大人の第一印象は、もっと単純なのではないか。 

結局、髪のまとまりと眉毛なのだ。

若い頃なら、少し乱れた髪やくせ毛も無造作な魅力で済んだかもしれない。だが、大人になってからの無造作は、下手をするとお疲れ気味に見えてしまう。私は、くせ毛なら潔く短く切るか、ひとつに結ぶくらいが、一番きれいに見える。ソフィア・ローレンのような髪に憧れても、自分の手だけで近づけるには限界がある。勝負の日くらいは、黙って美容師さんに頭を預ける。私自身、量が多く太いくせ毛なので、髪には少々うるさい。18歳から三十年以上通う美容師さんにも、毎回苦労をかけている。

学生時代までは、渋谷や原宿を歩いているだけで、いつの間にかストリートスナップの被写体になっていることがあった。「その髪、どこでやったんですか」と声を掛けられることも少なくなかった。この話は、またいつか。

そして、眉毛。ここにもその人の今が出る。描く前に必要なのは、普段のお手入れである。まずは眉毛サロンへ行ってみてもいい。プロの仕事を知り、土台を整えてから、初めて描く作業に入るのだ。昔雑誌で読んだ、メイクアップアーティストの藤原美智子さんの教えを参考に整えたこともあるが、プロの眉には理屈がある。

モデルや女優さんが美しいのは、写真を撮られる機会が多いからではないかと思う。客観的に自分を見る時間が、人よりずっと長い。実は私は、メイク後の自分や、話している姿を毎日写真に収めよう、と思っているのだが、次の日には忘れてしまう。年齢や性別に関係なく、写真や動画で「他人の目に映る自分」を直視する習慣を持てば、少しずつ変わっていくはずだ。鏡の中のキメ顔ではなく、動く自分を確かめること。

洋服も大事だが、印象を決定づけるのは結局、首から上の始末だ。清潔感という目に見えない気配は、高価な服を着ることではなく、自分のパーツと向き合い、整えるための小さな手間なのだろう。

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社会現象にもなった竹内一郎さんの『人は見た目が9割』(新潮社)
藤原美智子さんのMICHIKO.LIFE「エッセンスブロウペンシル レフィル ナチュラルブラウン

ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

健やかさの残酷

普通の生活を送るには、想像以上の体力がいる。

朝起きる。着替える。食べる。排泄する。風呂に入る。太陽の光を浴びて、日々の糧を得るために働く。そして、他者との関係を維持する。文字にしてしまえばただの日常だが、これらを毎日滞りなくこなすのは、実はとてつもなく骨の折れる作業だ。

私の場合、夜には体力が底をつくことがよくある。健康を維持するため、小分けにしながら毎日五キロ歩くが、「体がきつい」という瞬間がある。夜にうたた寝することもある。私にとって入浴は、休息ではなく体力を使う作業でもある。体も髪も洗い終え、湯船にまで浸かれた日は、それだけで上出来なのである。こういう日は、睡眠も栄養も足りている。また、人さまの仕事に体力を使い切らなかった証拠でもある。すべてを出し切るのが若い時代の働き方というものだが、経験を積んだ大人は、七割に留め、残りの三割は翌日に持ち越す。それがお互いのためなのである。 

手のひらの上の舞台

ソーシャルメディアをはじめとするインターネットメディアの浸透によって、誰もが何かを発信し、披露できる時代になった。

収益になるかどうかは別として、もともと「発信できる場」を作ったり、発信そのものを生業とする会社に身を置いていた私としては、驚かされる。世の中にはこれほどまでに「物申したい」「伝えたい」「私の作ったものを見てほしい」という欲望を抱えた人たちがいたのかと。

しかし、それはネットが新たな欲望を生み出したのではない。人間の底にあった表現への欲が、可視化されただけなのだろう。人は本質的に、発信して披露したい生き物なのだ。

だとしたら、インターネットが出現する以前、彼らはどんな思いで日々を過ごしていたのか。限られた「発信できる場」に立つ人間たちを、どんな目で見つめていたのか。

「発信する側」の業界にいた人間なら、きっと覚えているはずだ。ネット初期のあの「気軽な発信と披露」をすぐには受け入れられなかった、ざらついた空気を。

今のネットメディアは、企業や組織が入り、第三者の目を入れながら作ることが当たり前になった。だが、出たての頃は違った。後ろ盾もなく、ただ個人の熱量だけで発信している人たちのことを、既存の「場」にいたプロたちは、白い目で見ていた。

かつて、音楽、写真、映像、映画、そして活字の世界には、自分のすべてを費やすプロフェッショナルたちがいた。今は、働き方改革や新型コロナ禍を経て、労働時間は短くなっているように見える。ある者は強い正義感から、またある者は純粋な熱中と楽しみから、その身を削るようにして後世に残る記録を生み出していた。それは、表現にすべてを懸けることが許され、それが価値を持った幸福な時代だったのかもしれない。

 

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値札のついた時間

手元の『岩波国語辞典 第八版』を引いてみる。

「口入れ」、奉公人の周旋を職業とする者。「口入れ屋」。この業は一九四七年、法律で禁止。

「桂庵(けいあん)」、雇い人の周旋業(者)。口入屋。現在では、この業は法律で禁止。

「女衒(ぜげん)」、女を遊女に売る周旋を職業とする者。

「口入れ」や「桂庵」は職業安定法によって禁じられ、「女衒」に至っては言うまでもなく人身売買として法で断罪されている。とうの昔に法律で禁じられ、歴史の闇に消えたはずのこれらの業だが、彼らは合法の看板を掛け替え、立派なスーツを着て現代のオフィス街を闊歩している。

2026年6月2日、公正取引委員会が、人材派遣大手5社に対して独占禁止法違反の疑いで立ち入り検査に入った。派遣先に請求する料金をめぐり、価格カルテルを結んでいた、というのだ。外国の報道がどう扱ったかは知らないが、日本のメディアはこれを一斉に報じた。民間企業だから、カルテルと呼ばれているが、要するに、談合である。誰もが知るもう一つの大手企業が名を連ねていなかったのは不思議ではあったが。

そして、このニュースを見ても、私は少しも驚かなかった。

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岩波 国語辞典 第八版

AIは、言葉の外で育っていた

自分なりに求職活動を続けていると、望むと望まざるとにかかわらず、いろいろな情報が飛び込んでくる。

企業はとかく「守秘義務」だのなんだのと厳しく言うが、求人概要には、内資・外資を問わず、企業の姿をうかがわせる情報が落ちている。 

熱心に株式投資をしている人なら、IRだけでなく、日本語や英語の求人情報まで追っているのではないか。そんなことを思ってしまう瞬間がある。

企業が口にする「守秘義務」とは、いったい何なのだろう。 

話題のAI産業も例外ではない。求人概要を眺めていると、そこから見えてくるものの多さに驚かされる。

そして、その求人を眺めながら、私はあることに思い至るのだ。

AIが社会の表舞台に立つようになった今だからこそ、その担い手が誰なのかという景色に、つい目が向いてしまう。 

AIとは、突き詰めれば「言葉」の技術だと考えていた。だから私は、長い時間をかけて言葉を大切に育ててきた人たちが、その中心にいるのだろうと思っていた。  

ところが、求人から見えてきたのは、まったく別の景色だった。

社名は伏せられていても、業務内容や勤務地を追っていくうちに、通信や建設といったインフラ企業の姿が浮かび上がってきた。技術への熱量は伝わってきた。しかし、求人概要からは、言葉そのものや、背景にある文化への関心は読み取れなかった。その印象は、今も変わらない。

AIを支えているのは、言葉を紡ぎ、文化を蓄積してきた会社ではなく、道路や街をつくり、電波を飛ばしている技術の会社に見える。

文字盤の裏側で、足場が静かに組まれていく。

活字の森を出るための荷造り

本も新聞も読まない世界へ」という投稿で、私の古巣の出版業界の、あくまで私の知っている範囲での当たり前が、一歩外へ出れば、いかに通用しないかを書いた。

社内のメールやチャットでは「さま」ではなく「さん」が飛び交い、絵文字が多用される。私が見てきた限りでは、本や新聞を読まない人たちの方が圧倒的多数であり、未婚や子どもがいないことは、異端として扱われる。それが、よその世界のリアルである。

なんらかの事情で活字の業界を離れたり、メインの仕事を変えたりすることがあるだろう。そのとき、この文化の決定的な違いを事前に知っておくだけで、異邦人としての心細さは半分くらい軽くなる。 

ファッションのセンスを持つ

インターネットもソーシャルメディアもない時代、ファッション誌の存在は特別だった。作り手たちの育ちや経済的な階層は、誌面にも自然と映し出されていた。

読者モデルには、そうした家庭や、戦後に成功したお宅の血筋の子女が、学校名を出して登場していた。ダブルインカムが全く普通ではなかった時代、お父さん一人の経済力だけで、子どもを小学校や中学校から私立へ通わせる家庭は、特別中の特別だった。私が見てきた範囲では、大企業から中小企業まで、企業オーナーや自営業や文化人のお宅、あるいは、祖父母の代、それ以前から東京とその近郊で暮らしてきた家庭の子どもが多かった。

私が育った東京城西地区の公立学校では、クラスの2割に満たないくらいの女子たちは、中学生のときは「オリーブ」「mcシスター」「ジュニアスタイル」「アンアン」を読み、それらは、その子たちの間で回し読みされていった。高校生になったら、これらをチェックして「JJ」を読み、卒業したら、さらに「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」が加わるコースが王道であった。競合誌もあったけど、当時は、これらが一流誌という位置づけだった。バブル期に創刊された「ヴァンテーヌ」は「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」の前に入るかもしれない。私の場合は高校時代に「ポパイ」と「ホットドッグ・プレス」が加わった。

こうした雑誌文化に触れやすかったのは、出版や流通が首都圏に集中していたからだろう。地方では、同じ雑誌でも発売日や入手のしやすさに差があることを、後に出版社で働くようになってから知った。

令和になった今でも、出版社が作るファッション誌には知性がある。もちろん当時もそうだった。編集部には、雑誌を入口に本へ読者を導こうという考えもあったのだろう。私が山田詠美さんの作品に出会ったのも、マガジンハウスの「オリーブ」に連載されていた『放課後の音符』がきっかけだった。以来、今もずっと大好きな作家で、サイン会にも何度も足を運ぶほど夢中になった。

中学時代から読んでいたファッション誌からは学ぶことがたくさんあった。私は、ファッションセンスは親の影響が半分以上だと考えている。親もその親がいるわけだから、もはや遺伝に近い。そして、親が言葉にしなかったことは、雑誌の写真や文章が教えてくれた。

本も新聞も読まない世界へ

出版社を退職してから、いろいろな仕事を経験した。辞めた理由について、今回は書かない。円満退社であり、オーナーを含めて元の会社の人たちとは今も仲が良い。道端でばったり会っても、毎日一緒にいるかのような感覚で、立ち話で盛り上がれる関係だ。

2013年当時、世の中は、そこまでデジタル化は進んでいなかった。ただ、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災を経て、チャットツールやソーシャルメディアが一般化し、時代は混沌としていた。仕事は、おおむね、情報と活字を軸にしたものに携わることになった。団塊ジュニア世代の私が40代に入った頃だ。

業界を出て最も驚いたことの一つは、職場で本と新聞の話がほとんど通じなかったことだ。

本といっても幅は広いから、文芸、社会科学、人文科学、自然科学などの一般書、文庫、新書に限定しておく。専門書と医学書、資格書は含めない。中には、本を読む人たちが集まる業界もあった。ただ、そこは、出版業界と同居しているような業界だったから、同じ家の人とみなすことにする。また、ここでは、「買う」ではなく、「読む」に絞って話を進めたい。

それから、仕事で出会った学者の先生方は例外だった。一般書も含め、それはそれは熱心な読書家ばかりだった。 

何百人と接したわけではないが、隣の席になった人、上長になった人と接する中で、本や新聞を読み、買い、あるいは書店や図書館へ行く行為が、歯磨きと同じくらい当たり前である世界の方が特殊だったのだと、業界を離れて初めて知った。本に囲まれて育った私には、信じがたい現実だった。不思議なことに、古巣を離れて初めて、出版社勤務ではなかったものの、親たちもまた本の仕事に携わっていたのだと気づいた。

その後、何人もの仲間が出版業界を離れた。彼らは口を揃えて「他の業界では、誰も本を読まない」と言った。さらに「未婚だったり子どもがいなかったりするだけで、まるで異端のように見られる」というカルチャーショックを訴える友人もいた。出版業界では、私より少し下の世代から上の世代まで、男女を問わず未婚者や子どものいない既婚者が珍しくなかった。しかし、一歩外へ出ると、それは当たり前ではない。そのギャップに耐えかねて、結局また業界に戻っていく営業や編集者がいた。中には心身の不調を抱える人もいた。私自身、その手前の状態になった。それでも、他業界で習得したいことがあった。

長く続く出版社・取次・書店の構造的問題、以前からの出版不況、インターネットの普及に伴う情報アクセスの容易化、そしてソーシャルネットワークの台頭により、本や新聞が読まれなくなったと言われる。しかし、私は業界の外へ出て、「もともと読まない人の方が多かったのではないか」と考えるようになった。

衝撃はあったものの、業界を移動したことで視野は少しだけ広くなった。愛すべき業界を俯瞰することもできた。さらに、私たちの日常を支える社会のインフラがあることも知った。

出版業界に近い業界で働く知人がいる。子育てをきっかけに親同士の付き合いが始まり、それまで接点のなかった人たちと関わるようになったという。「いかに自分が狭い世界で経済活動をし、友人関係を築いてきたかがわかった」と話していた。

学生時代までに知り合い、連続性のあるかたちで付き合いがある友人や知人、その延長で知り合った人たち、ご近所コミュニティの場合は、本も新聞も読まなくても違和感はない。彼らの中には、エリートサラリーマンもいれば、芸術家や芸能の世界で活躍する人もいる。戸惑うのは、本を読まない人たちが集まる利害関係の経済活動の場なのである。

もし出版の世界から別の業界へ移り、新たな利害関係の中で仕事をするのなら、自分が当たり前だと思っていた世界は、決して世間の標準ではない、と知っておいた方がいい。他の世界で「浦島太郎」にならないために。

私もそのカルチャーショックで、ひどく落ち込む時期があった。しかし、ある種の割り切り方と、新しい働き方の軸(海外企業の仕事など)を見つけたことで、外の世界でも自分の言葉をすり減らさずに生きられるようになった。その具体的な処世術については、また追って詳しく書いていく。ただ、活字媒体企業に直接雇われている正社員や契約社員、嘱託などの40代半ば以上の人に向けて、これだけは先に書いておきたい。

まず、いまだに面食らうのは、「編集」と「営業」という言葉の意味である。古巣の出版業界での意味は、他業界では必ずしも通用しない。就職斡旋業者でも、「編集」と「営業」の意味が、業界ごとに異なることを理解しておらず、企業・斡旋業者・求職者の三者で認識が食い違い、ミスマッチにつながる場面を私は経験したことがある。

次に、他業界では、TeamsやSlackなどの業務チャットを、口頭で会話するのと同じ感覚で使って仕事を進めている。業務の流れそのものがチャットを中心に回る会社も少なくない。また、業務チャット内での絵文字(あいさつ代わりのリアクションなど)の文脈や、カタカナビジネス英語がごく自然に使われている。

新型コロナ禍を経てチャットツールを導入した企業が増えたとはいえ、本格的な活用は経営者の判断に委ねられているのが実情だろう。一社員の立場ではどうにもならないこともあるかもしれないが、今のうちから慣れておいた方がいい。

それから、活字媒体企業は、社内のメールやチャットで「さま」を使い、用件は2~3文、長くても5文でまとめることが多いはずだ。朝日新聞記者の近藤康太郎さんの『三行で撃つ』という、近年における名著があるが、このタイトル通りの世界だ。一方、他業界は「さん」を使う。出版業界を離れた友人は、「さん」と呼び、「さん」と呼ばれることが、踏み絵を踏まされる気持ちになると言っていた。私にも、その気持ちはよくわかる。

「さま」の使用については、以前、出版社や新聞社あわせて20社ほどの人たちに、社内で「さま」を使うのか「さん」を使うのかを尋ねたことがある。聞いた範囲では、全員が「さま」と答えた。もちろん、出版社は数千社あり、新聞社も全国紙、地方紙、専門紙まであるため、すべての会社や部署について確認したわけではない。最近はフラット化の流れで「さん」を使う会社もあると聞く。それでも私が知る限りでは、「さま」が標準のようだ。

外の世界は広い。ただ、備えがあれば、渡れる海でもある。

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本記で触れた朝日新聞記者の近藤康太郎さんの著書はこちらです。
『三行で撃つ:〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

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