出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

カテゴリー: ルーツと文化

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

祖父の名前をたどる

少し前、SNSを眺めていたら、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って自分のルーツを調べることが、一部の人たちの間で静かな流行を見せていた。

親族の中に文献を残した人が何人かいる私も、そのアーカイヴをたどってみることにした。著作の多かった大叔父の名前があることはわかっていたが、念のため祖父の名前も入れてみた。わりとすぐに見つかった。

長崎に生まれた祖父が、東京の私大を出ていたことは、近年になって知った。祖父が若い頃、東京で暮らしていたこと自体が、私には意外だった。

その後、故郷のミッションスクールで国語の教員をしていたことは前から聞いていたが、デジタルアーカイヴをたどるうち、教壇に立つかたわら、編集や校正といった活字にまつわる仕事にも携わっていたことを知った。多くの本を残した大叔父だけでなく、祖父もまた、活字の世界に身を置いていた。

私は、祖父の顔を知らない。母もまた、自分の父親の顔を知らない。祖父は、母が生まれる約1カ月前、長崎の原爆で死んだ。

出産を間近に控えた祖母は、大分にある実家に身を寄せていた。祖父は夏休みの間、祖母の顔を見るために大分へ来ていたという。そのまま留まっていればよかったものを、祖父は長崎へ帰る汽車に乗った。教え子たちが、学徒動員で三菱系の工場で働いている。彼らの顔を見に行かなければ、と。

8日のことだったのか、あるいは9日の朝一番だったのか。大分から長崎へ向かった祖父の正確な足取りは、もう誰にもわからない。

遺骨もないからだろうか。母も、すでに他界した伯父も、よく口にしていた。実はどこかで生きていたんじゃないかと。私も、時々思った。実は、新しい家庭があったんじゃないか、とか。 

長崎出身の友人のおじいさまは、広島で被爆し、その後長崎へ戻って再び被爆したそうだ。それでも80代までご健在だったという。同じ8月でも、人の運命はこんなにも違う。

1978年、大叔父が取り仕切ってくれた三十三回忌の法事の記憶が、かすかにある。生きて会うことは叶わなかった人。それでも、名前の入った文献を読むと、自分にも同じ血が流れているのを感じる。

記録を残すというのは、なんて心強いことだろう。顔も知らない祖父との距離を少し縮めてくれる。

そして、その足跡は、何も紙やアーカイヴの中だけにあるのではない。今日のこの一行も、誰かと誰かを巡り合わせるものになるのかもしれない。

白と藍の壺の中

子どもの頃から、我が家の食卓には当たり前のようにぬか漬けが並んでいた。母が毎日、ぬか床から上げていた。私は、きゅうりの古漬けが大好きである。

ある夏、両親の郷里である長崎と大分へ、家族で帰省することになった。留守の間、母は官舎で親しくしていた近所の人に、ぬか壺の世話を頼んで出かけた。私の幼なじみのお母さんでもあった。

一週間か二週間ほどして東京へ戻り、母がお土産を手にお礼へ伺うと、思いもよらない話を聞かされた。そのお宅は、急に山形の実家へ帰っていたという。

では、我が家のぬか床はどうなっていたのか。

小母さんは、壺ごと車に積み込み、山形まで連れて行ってくれていたのだった。ご実家でも毎日かき混ぜ、帰りの車にもまた一緒に乗せてくれたそうだ。

今思えば、当時の車は、全く快適ではなかったはずだ。それでも、母から預かったぬか床を連れて行ってくれた。その話になるたび、母は今でも「本当に申し訳なかった」と笑う。

几帳面な母でも、ときにはぬか床をだめにしてしまうことがあった。だが、一から作り直すことはしない。贔屓にしていた新宿の百貨店の漬物売り場へ行き、顔なじみの店員さんに「少し分けていただけないかしら」と頼んで、熟成した種ぬかを分けてもらう。もちろん、ぬか漬け以外の漬物も買っていた。そんなやり取りが自然に成り立つ時代だった。百貨店は、まだ庶民のための店だった。

一人で暮らすようになり、いつの間にか、あの匂いは食卓から消えていた。時おり、無性に食べたくなって八百屋やスーパーで買うこともあったが、子どもの頃から当たり前にあったものが、思いのほか高いことに気がついた。

そんなわけで、去年の夏、ようやく私もぬか漬けを始めることにした。近所の自然食品店で、母が使っていたのと同じぬかを見つけ、種ぬかなしで始めた。

問題は、容器だった。実家にあったような大きな壺は、一人暮らしの身にはあまりに大きい。ネットで調べると、ホーローに入れて冷蔵庫で管理している人が多いようだった。

だが、毎日手を入れるものだからこそ、気に入った器を使いたかった。古美術店を何軒か覗いて歩き、ようやく出会ったのが、白地に濃い藍で梅の枝と人物が描かれた、茶道具の水指だった。「ぬか漬け用なんです」と話すと、店主は少し笑って、勉強してくれた。

あれから、まもなく一年になる。月に二度ほど新しいぬかを足しながら、味もすっかり落ち着いてきた。今の季節なら、ゴーヤやナスを放り込んでおく。水指の蓋を外し、野菜を取り出す。その一連の動きが、いつの間にか私の日常になった。

思うようにいかない日もある。そんなときでも、底からゆっくりとかき混ぜていると、今日の暮らしを育てている気持ちになる。

ぬか床は、急かしても育たない。それでも、手をかけた時間は、味になって返ってくる。それが、私に明日へ向かう力をくれている。

完璧な食卓を降りる

少し前に、母と家事の話になった。

改まって話し込んだわけではない。世間話の流れで、母のまわりにいる高齢者たちの暮らしぶりを聞くことになった。聞けば、皆さん、思っていた以上に合理的だった。冷凍野菜や市販のおかずを上手に取り入れ、中には紙皿や紙コップを日常的に使っている人もいるという。

食材は生協でまとめて買い、何でも手作りしていた母でさえ、最近は生協の冷凍おかずを買うことがあるらしい。餃子がおいしいらしい。現在どこの生協を利用しているかは聞きそびれた。

もうすぐ卒寿を迎える父は、食卓に紙皿や紙コップが並ぶのを好まない。だから母自身は使わない。それでも私には、こう言った。「やってみたら。少しは家事が楽になるかもしれないわよ」

母は分かっている。私の毎日の忙しさも、体に抱えているものも。あれは、母なりの、完璧を目指さなくていい、という許可だったのだと思う。

私は十五歳で潰瘍性大腸炎を発症した。以来、水分補給は暮らしの中心にある。毎日四リットル以上の水と海塩を摂るのが私のルールで、特に夏は、コップや水筒を洗っても洗っても、また洗う時間がやってくる。夏が来るたびに、うんざりしていた。

母の言葉を聞いた私は、さっそく近所の百円ショップへ向かった。まずは紙皿と紙コップを一袋ずつ買ってみる。食事を載せると、その軽さに思わず落としそうになった。

今は近所の店を回りながら、厚みや強度を比べて、お気に入りを探している最中である。気に入った品ほどなぜか定番にならないようで、次に行くと棚から姿を消していることもある。それでも、いいものが見つかれば、まとめて買うつもりだ。

もちろん、ゴミは増える。以前、洗い物を減らしたくて五百ミリリットルのペットボトルの水を大量に買っていたことがあった。しかし、積み上がるプラスチックを前にすると、どうしても気持ちが落ち着かなかった。ところが、不思議なことに、紙皿や紙コップには同じ罪悪感を覚えない。

「紙だから」

たったそれだけの、自分勝手な理屈である。それでも、その小さな理屈のおかげで、私の心は少し軽くなった。

コップを洗う回数が減り、食後の皿洗いも減る。毎日の家事は軽くなった。

習慣というものはなかなか変わらず、気が付けばいつもの愛用のコップやどんぶりを使っている時もある。それでも、シンクに立つ時間は、少しずつ短くなっている。

紙コップと紙皿を折ってゴミ箱へ入れるたび、完璧な暮らしを続けることよりも、今日を無事に終えられることのほうが大切なのだ。母が許してくれたのは、紙皿ではない。完璧でいようとする私なのである。

快適と停滞

最近、三十九円のピーマンで半日を棒に振った。その日はどうしても、油揚げとピーマンを軽く炒めたものが食べたかった。最近の私は油揚げに凝っている。どうやら油揚げというものは、素材がよく、それなりに値の張るもののほうがおいしいらしい。

本当は、ししとうで作りたかった。しかし、私には刺激が強すぎるかもしれないと思い、スーパーで安売りされていた三十九円のピーマンを手に取った。

安かったことが問題だったわけではない。長年の経験で、自分にはピーマンが合わないことを知っている。それでも、食べたかったのである。おいしかった。

食後しばらくして、唇がビリビリとしびれ始めた。嫌な予感がした。気持ち悪さがじわじわと押し寄せた。血圧計を見なくてもわかる。長年付き合ってきた低血圧の体は、危険信号の出し方を私に教え込んでいる。慌てて正露丸を一粒飲み込んだ。

喉が痛いときも、鼻の調子が悪いときも、私はとりあえず正露丸を飲む。潰瘍性大腸炎には効かないことも、医学的には正しい対処ではないことも承知している。それでも手が伸びるのは、父の影響だ。

父は、大学を卒業してから定年まで勤め上げ、その後も八十歳まで働き続けた。突然体調を崩して仕事を休むような人ではなかったが、熱が出ると決まって正露丸を飲んでいた。その姿を見て育った私は、この十年ほど、父の癖をそのまま受け継いでいる。

もっとも、今回ばかりは正露丸も歯が立たなかった。寝不足も重なり、私は半日横になって過ごすことになった。

私には、食べ物についていくつものルールがある。それは本やインターネットで覚えた知識ではない。何十年もの失敗を重ね、体を張って覚えた経験である。ピーマンも、その一つだった。

ルールというものは、思いつきでは作れない。痛い目を見て、失敗を繰り返し、その経験が体に刻み込まれて初めて、自分だけのルールになる。そして、そのルールを守り続けることで、やがてルーティンになっていく。

今、私は余暇のほとんどを、このブログの構築に注ぎ込んでいる。更地に家を建てているわけではない。二〇一三年から二〇一八年頃まで本格的に書いた記事や、その後、二〇二一年八月まで細々と続けていた投稿はすでに下書きにしていたが、手を入れながら作り直している。WordPress.orgの投稿を、一つひとつ読み返すことはない。膨大、その余裕がない。 

しかし、宣伝用に無料ブログを利用していたことで、タイトルなどは見ることになる。恥ずかしい。

それでも、過去の自分と向き合うたび、不思議と目は未来へ向く。

近年、時間は過去から未来へ流れていくものではなく、未来から現在へやって来るものなのではないかと思うようになった。だから未来は、待つものではない。迎える準備をするものなのだ。

ぬくぬくと快適な場所に居続けることは心地いい。だが、その快適さは、ときに人を停滞させる。

十三年前、出版社を辞めたときも、同じような思いがあった。会社が続く限り、定年まで働くことはできただろう。それでも私は、その先の自分を想像したとき、このままでは立ち止まってしまう気がした。

新しいことを覚え、小さな目標を立て、一つずつ越えていく。今いる場所の外へ出る作業は、体力も気力も使うし、決して楽ではない。

それでも、このブログを整える時間、書く時間は、楽しい。過去を片付けることは、未来を迎える準備でもあるし、執筆は、自分に向き合える。

三十九円のピーマンで半日を失った私は、また一つ、自分のルールを思い出した。

秘密のまま閉じる

心が落ち着かない時、人はどうにかして、自分でコントロールできる小さなことを探し始めるらしい。

私の場合は、有料無料を問わず使わなくなったサーヴィスの解約と、長らく放置していたWebサイトの閉鎖作業だった。

Webサイトの閉鎖は、自分で立ち上げたものだからこそ、根気がいる。中身を取り出し、サーヴァーやドメインの契約も整理していく。ガイダンスはないから、自分で箇条書きしたものを埋めていく。 

本来なら、普段からデータのバックアップをスプレッドシートにまとめておくべきだったのだ。それすらしていなかった私は、最初は、プラグインを使って一括で引っ張り出そうとした。しかし、こういう時に限ってうまくいかない。結局はひとつずつ画面を開き、手作業で確認しながら進めることになった。 

最後のサーヴィスの解約のボタンを押した。

押した瞬間は、何も感じなかった。達成感も後悔もない。しかし、パソコンを閉じてしばらくすると、遅れてじわじわと寂しさが込み上げてきた。ああ、本当に終わらせてしまったのだなと。

閉鎖を決めたのは、「16 pages(16ページ)」というサイトだ。

立ち上げるときは、URLの候補を五十個ほどノートに書き出し、ひとつずつドメインの空き状況を調べた。インターネットが当たり前になって久しい今、まともな英単語や短いフレーズは、もうほとんど使われている。半ば諦めながらノートを眺めていた時、ふと浮かんだのが、その名前だった。

十六ページ。印刷や製本に携わったことのある人なら、ピンとくる数字だ。一枚の紙を折り重ねて作る「折丁(おりちょう)」は、多くの場合、十六ページ単位で構成される。本という大きな物語を形づくる、基本となるひとかたまりである。

その名前の由来を話したのは、ごく親しい友人三人だけだった。テック業界で働く二人は「すごく素敵じゃない」と目を輝かせてくれた。出版業界にいるもう一人の友人は、「その意味が分かる人は、そんなに多くないと思うよ」と笑った。

あまりにも現実的な一言に、私も思わず苦笑いした。

それなら、この由来は自分だけの秘密にしておこう。そう決めて、サイトにも書かず、SNSでも一度も触れなかった。秘密は、そのまま持ち続けるつもりだった。

ところが、その頃から、目の前の暮らしを回すだけで精一杯の日々になった。だいぶ前、占い師の友人が「この時期は大変になるわよ」と言っていたのを思い出す。渦中にいるときは気がつかないが、振り返れば、確かにそういう星回りの時期だったのだろう。サイトを更新する余裕などどこにもなく、いつか立て直そうと思いながら、時間だけが過ぎていった。 

自分の力ではどうにも動かせない現実の焦りから逃げるように、私はつい先日、自分の手で、そのサイトに幕を引いた。

まもなく、「16 pages(16ページ)」は見られなくなる。

誰にも話さないまま終わらせるつもりだった名前の由来を、消えるいまになって初めて書いている。我ながら、勝手なものだと思う。

自分では変えられないことは、世の中にいくらでもある。その小さな終わりは、次の一枚をめくるための始まりなのだ。

 

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

流行より透き通るもの

前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。

母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。

今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。

その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。

何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。

思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。

ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。

しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。

結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。

父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。

あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。

ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

活字の森を出るための荷造り

本も新聞も読まない世界へ」という投稿で、私の古巣の出版業界の、あくまで私の知っている範囲での当たり前が、一歩外へ出れば、いかに通用しないかを書いた。

社内のメールやチャットでは「さま」ではなく「さん」が飛び交い、絵文字が多用される。私が見てきた限りでは、本や新聞を読まない人たちの方が圧倒的多数であり、未婚や子どもがいないことは、異端として扱われる。それが、よその世界のリアルである。

なんらかの事情で活字の業界を離れたり、メインの仕事を変えたりすることがあるだろう。そのとき、この文化の決定的な違いを事前に知っておくだけで、異邦人としての心細さは半分くらい軽くなる。 

ファッションのセンスを持つ

インターネットもソーシャルメディアもない時代、ファッション誌の存在は特別だった。作り手たちの育ちや経済的な階層は、誌面にも自然と映し出されていた。

読者モデルには、そうした家庭や、戦後に成功したお宅の血筋の子女が、学校名を出して登場していた。ダブルインカムが全く普通ではなかった時代、お父さん一人の経済力だけで、子どもを小学校や中学校から私立へ通わせる家庭は、特別中の特別だった。私が見てきた範囲では、大企業から中小企業まで、企業オーナーや自営業や文化人のお宅、あるいは、祖父母の代、それ以前から東京とその近郊で暮らしてきた家庭の子どもが多かった。

私が育った東京城西地区の公立学校では、クラスの2割に満たないくらいの女子たちは、中学生のときは「オリーブ」「mcシスター」「ジュニアスタイル」「アンアン」を読み、それらは、その子たちの間で回し読みされていった。高校生になったら、これらをチェックして「JJ」を読み、卒業したら、さらに「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」が加わるコースが王道であった。競合誌もあったけど、当時は、これらが一流誌という位置づけだった。バブル期に創刊された「ヴァンテーヌ」は「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」の前に入るかもしれない。私の場合は高校時代に「ポパイ」と「ホットドッグ・プレス」が加わった。

こうした雑誌文化に触れやすかったのは、出版や流通が首都圏に集中していたからだろう。地方では、同じ雑誌でも発売日や入手のしやすさに差があることを、後に出版社で働くようになってから知った。

令和になった今でも、出版社が作るファッション誌には知性がある。もちろん当時もそうだった。編集部には、雑誌を入口に本へ読者を導こうという考えもあったのだろう。私が山田詠美さんの作品に出会ったのも、マガジンハウスの「オリーブ」に連載されていた『放課後の音符』がきっかけだった。以来、今もずっと大好きな作家で、サイン会にも何度も足を運ぶほど夢中になった。

中学時代から読んでいたファッション誌からは学ぶことがたくさんあった。私は、ファッションセンスは親の影響が半分以上だと考えている。親もその親がいるわけだから、もはや遺伝に近い。そして、親が言葉にしなかったことは、雑誌の写真や文章が教えてくれた。

手を動かしてこそ

約5年ぶりにブログを再開する。本格的な更新は2018年2月までで、その後も時折投稿していたが、2021年8月を最後に筆を置いた。

最も熱心に書いていたのは、2013年から2018年2月までだった。2016年の春を除いて、毎日書いていた。しかし、Googleの検索アルゴリズムが激変し、医療・健康分野の個人コンテンツの評価基準が大きく変わった。2016年初夏以降、発信の主軸は健康がテーマで、このブログも例外ではなかった。2018年の2月の上旬くらいだったか、アクセス解析を見たら、ずどーんと落ちていた。2017年の終わりから2018年2月頃にかけて起きたその地殻変動を機に、一度ブログから離れようと思った。

でも、今年のある朝、ふと思うことがあり、また書くことにした。

始めるにあたって、リフォームと大掃除をした。久しぶりに触るWordPressはよくわからないことが多かった。ログイン画面を前に、パスワードは、昔Evernoteに保存していたメモから探した。やっとログインしたと思ったら、管理画面はすっかり変わっていた。

そして、アップデートをしなければならなかった。次に、長年使っていたテーマは古いものになっていた。AIに頼れる時代にはなった。質問しては、止まって、直して、また聞く。私は行動時間を極力計って生活しているのだが、この作業だけで2時間半弱を要した。

5歳から16歳まで習っていたピアノは、1日弾かないと指が動きづらかった。手を動かしていないと、技術も感覚も薄れていくことを痛感した。指と同じで、言葉も書かなければ衰える。だから私はまた、書くことに戻ってきた。

体調不良や突発的な何かが起きない限りは、毎日投稿する予定だ。公開する時間帯や、1日に何回投稿するかは、今はわからない。メニューバー、それから、バナーやファヴィコンなどは徐々に整えていくとする。自己紹介もおいおい。

働くこと、生きること、楽しむこと。書きたいことは山ほどある。これからどうぞお付き合いください。

そういえば、この投稿用の写真もない。

2013-2026 ©RealKeiJP

上へ ↑