出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: 労働と手触り

仕事の手触り、労働の質感、構造の陰影、道具と感覚

年に一つは、新しい道具を

このブログで公開した投稿をnote用に再編集して公開することを始めた。極力毎日更新するとあちらに書いたが、noteは、少しゆるくやっていこうと思っている。

あまりに素っ気ないのもどうかと思い、サイトに少しずつ飾り付けに手を付けることにした。まずはバナーである。

ペイントやGIMPといった画像ソフトなら、それなりに使える。デザイナーではないから毎日のように触るわけではないにせよ、一通りの技能はある。だが今回は、今どき人気の「Canva」を使ってみることにした。

開いてみると、画面がいかにも今時っぽい。重厚感がない。どこまでも軽い感じ。出来上がればそれでいいのだが、この「軽い、軽いんだよ」という感覚に、戸惑った。

サクッと終わるだろうと高を括っていたのが間違いだった。わからないところを調べたり聞いたり、いざnoteに設定してみても思うように反映されず、結局また最初から作り直す羽目になった。疲れてしまった。新しい道具というのは、頭の体操を要求してくる。

出来上がったバナーは、素人臭さが抜けない。一流のデザイナーたちの完璧な仕事を見てきた私の目には、はっきりとわかる。とはいえ、無料で作ったのだし、目的さえ伝わればそれでいいと割り切ることにした。

私は普段、新しいツールには慎重な方だ。LINEやWhatsAppといったチャットアプリの類は、世に出始めた2010年前後から、直感的に、これは使ってはいけないツールと嗅ぎ取り一切使っていない。 

彼らの売り上げ、こちらの日銭

前日の記事で、就職斡旋業者との押し問答について書いた。あの担当者は、なぜ現場とのミスマッチを恐れず、「やる気」を免罪符のように口にしたのか。その理由を考えているうちに、一つの構造が見えてきた。 

誠実な担当者はいる。しかし、企業という組織は、利益を上げる仕組みで動く。登録者の経歴を商品として扱い、市場に並べる私が接した複数の担当者は、まず直近の職歴を見ると話していた。その人が新卒で入った会社で何を学び、どんな力を培ったか。履歴書や職務経歴書の下のほうに追いやられてしまう、人間の根っこにある歴史は、最初のフィルタリングでは見落とされがちだ。

加えて、紹介手数料は一般的に成約時の想定年収に比例する。つまり、高く売れる経歴を持つ商品ほど、業者にとっての貢献度が高い案件となる。 ここに、現場のミスマッチの可能性があっても「まずは面談にかせ、何が何でも押し込もうとする」担当者が生まれる構造がある。少なくとも、前述の担当者とのやり取りでは、求職者の生活より数字が優先されているように見えた。 

仲介利益が生まれる構図を見ていると、宮尾登美子の小説や、今村昌平、五社英雄らの映画に描かれた世界を思い出す。現代は建前上、人権が守られた社会ではあるが、人が取引の対象として扱われる構図は、芸術が描いた世界と地続きのようにも思えてしまう。

とはいえ、担当者個人を責めることもできない。彼らにも日々の暮らしがある。

広告代理店が、時代の空気をつくる仕事だとするならば、現代の企業の血の巡りを握っているのは、データを持つ斡旋業者なのかもしれない。広告代理店はたびたび批判の対象になるが、斡旋業者の構造そのものは、あまり語られない。労働市場が合理化される一方で、人を見る目はますます数字に寄っていったようにも思う。 

彼らには彼らの売り上げがある。そして、こちらには今日を生きるための日銭がある。二つは、同じ「仕事」でも、違う方向を向いている。

やる気という名の幻想

日銭稼ぎのために仕事を請けることがある。半分くらいは、斡旋業者に登録してのものだ。私のキャリアでは案件につながりにくいのか、あるいは年齢の壁か、エントリーしてもシステムにはじかれることが増えた。閉鎖的な登録ページに自分の経歴が並ぶのを見るのは、気分のいいものではない。

出版社で正社員として働いていた頃までに、雇用の立場でできること、やりたいことは、一通りやらせてもらえた。オーナーたちの懐の深さには今でも感謝している。当時の同僚や先輩、後輩たちとはいまだに交流が続いている。また、別の会社での上司や同僚たちとも、道端でばったり会えば、さも毎日一緒に働いているかのように弾んだ話ができる。尊敬できるオーナーのもとで働くとは、こんな財産を遺してくれるものなのだとよく思う。

だが、斡旋業者が介入した世界は少し勝手が違う。熱心で素晴らしい担当者もいるが、首を傾げたくなる人にも出会う。

ある案件で、忘れられない出来事があった。 

私の経歴がマッチしたというので、斡旋業者の企業担当者二人、それぞれと面談をした。トータルで1時間15分。そこで開示された業務の詳細は、私にはとてもではないが務まらないと思えるほど、高度な専門性を要するものだった。

数日考え、社内選考の段階で辞退を申し出た。すると、担当者から引き留めにあった。「やる気があればできます」「コミュニケーションがとれれば大丈夫です」「人柄が求められているんです」と、精神論が返ってくる。 その分野の基礎的な専門用語をいくつか投げかけてみたが、担当者は話を逸らした。思い切って、その分野の実務や勉強をされたことはあるのですかと聞くと、「全くありません」と言った

合点がいった。理論や知識だけがあっても、手足を動かさなければ仕事にはならない。そして、その理論すら、本を読み、手足を動かし、また本を読む。そんな泥臭い往復の中でしか身につかない。楽器は触らなければ奏でられないし、お茶も道具を手にしなければ点てられない。背伸びをしてやる気でできる仕事と、それが許されない世界はあるのだ。後者の場合は、辞退するのがマナーなのである。

法律や倫理、組織の決め事を守るのであれば、極端な話、性格が暗かろうが人柄がどうだろうが構わない。現場が求めているのは、実際に動ける人だ。

私の周囲でも、働き手からも企業からもミスマッチの話を耳にする。今回はミスマッチの原因を見たような気がする。少なくとも、その担当者とのやり取りでは、そう感じた。

その電話は44分続いた。私に残ったのは「やる気」と「できる」は違うという、当たり前の事実を改めて確認したことだった。

近いうちに、この仕組みに違和感を覚える理由について、もう少し掘り下げてみたい。 

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