出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: 境界と区切り

境界線、手放すこと、カルチャーショック

秘密のまま閉じる

心が落ち着かない時、人はどうにかして、自分でコントロールできる小さなことを探し始めるらしい。

私の場合は、有料無料を問わず使わなくなったサーヴィスの解約と、長らく放置していたWebサイトの閉鎖作業だった。

Webサイトの閉鎖は、自分で立ち上げたものだからこそ、根気がいる。中身を取り出し、サーヴァーやドメインの契約も整理していく。ガイダンスはないから、自分で箇条書きしたものを埋めていく。 

本来なら、普段からデータのバックアップをスプレッドシートにまとめておくべきだったのだ。それすらしていなかった私は、最初は、プラグインを使って一括で引っ張り出そうとした。しかし、こういう時に限ってうまくいかない。結局はひとつずつ画面を開き、手作業で確認しながら進めることになった。 

最後のサーヴィスの解約のボタンを押した。

押した瞬間は、何も感じなかった。達成感も後悔もない。しかし、パソコンを閉じてしばらくすると、遅れてじわじわと寂しさが込み上げてきた。ああ、本当に終わらせてしまったのだなと。

閉鎖を決めたのは、「16 pages(16ページ)」というサイトだ。

立ち上げるときは、URLの候補を五十個ほどノートに書き出し、ひとつずつドメインの空き状況を調べた。インターネットが当たり前になって久しい今、まともな英単語や短いフレーズは、もうほとんど使われている。半ば諦めながらノートを眺めていた時、ふと浮かんだのが、その名前だった。

十六ページ。印刷や製本に携わったことのある人なら、ピンとくる数字だ。一枚の紙を折り重ねて作る「折丁(おりちょう)」は、多くの場合、十六ページ単位で構成される。本という大きな物語を形づくる、基本となるひとかたまりである。

その名前の由来を話したのは、ごく親しい友人三人だけだった。テック業界で働く二人は「すごく素敵じゃない」と目を輝かせてくれた。出版業界にいるもう一人の友人は、「その意味が分かる人は、そんなに多くないと思うよ」と笑った。

あまりにも現実的な一言に、私も思わず苦笑いした。

それなら、この由来は自分だけの秘密にしておこう。そう決めて、サイトにも書かず、SNSでも一度も触れなかった。秘密は、そのまま持ち続けるつもりだった。

ところが、その頃から、目の前の暮らしを回すだけで精一杯の日々になった。だいぶ前、占い師の友人が「この時期は大変になるわよ」と言っていたのを思い出す。渦中にいるときは気がつかないが、振り返れば、確かにそういう星回りの時期だったのだろう。サイトを更新する余裕などどこにもなく、いつか立て直そうと思いながら、時間だけが過ぎていった。 

自分の力ではどうにも動かせない現実の焦りから逃げるように、私はつい先日、自分の手で、そのサイトに幕を引いた。

まもなく、「16 pages(16ページ)」は見られなくなる。

誰にも話さないまま終わらせるつもりだった名前の由来を、消えるいまになって初めて書いている。我ながら、勝手なものだと思う。

自分では変えられないことは、世の中にいくらでもある。その小さな終わりは、次の一枚をめくるための始まりなのだ。

 

ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

活字の森を出るための荷造り

本も新聞も読まない世界へ」という投稿で、私の古巣の出版業界の、あくまで私の知っている範囲での当たり前が、一歩外へ出れば、いかに通用しないかを書いた。

社内のメールやチャットでは「さま」ではなく「さん」が飛び交い、絵文字が多用される。私が見てきた限りでは、本や新聞を読まない人たちの方が圧倒的多数であり、未婚や子どもがいないことは、異端として扱われる。それが、よその世界のリアルである。

なんらかの事情で活字の業界を離れたり、メインの仕事を変えたりすることがあるだろう。そのとき、この文化の決定的な違いを事前に知っておくだけで、異邦人としての心細さは半分くらい軽くなる。 

本も新聞も読まない世界へ

出版社を退職してから、いろいろな仕事を経験した。辞めた理由について、今回は書かない。円満退社であり、オーナーを含めて元の会社の人たちとは今も仲が良い。道端でばったり会っても、毎日一緒にいるかのような感覚で、立ち話で盛り上がれる関係だ。

2013年当時、世の中は、そこまでデジタル化は進んでいなかった。ただ、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災を経て、チャットツールやソーシャルメディアが一般化し、時代は混沌としていた。仕事は、おおむね、情報と活字を軸にしたものに携わることになった。団塊ジュニア世代の私が40代に入った頃だ。

業界を出て最も驚いたことの一つは、職場で本と新聞の話がほとんど通じなかったことだ。

本といっても幅は広いから、文芸、社会科学、人文科学、自然科学などの一般書、文庫、新書に限定しておく。専門書と医学書、資格書は含めない。中には、本を読む人たちが集まる業界もあった。ただ、そこは、出版業界と同居しているような業界だったから、同じ家の人とみなすことにする。また、ここでは、「買う」ではなく、「読む」に絞って話を進めたい。

それから、仕事で出会った学者の先生方は例外だった。一般書も含め、それはそれは熱心な読書家ばかりだった。 

何百人と接したわけではないが、隣の席になった人、上長になった人と接する中で、本や新聞を読み、買い、あるいは書店や図書館へ行く行為が、歯磨きと同じくらい当たり前である世界の方が特殊だったのだと、業界を離れて初めて知った。本に囲まれて育った私には、信じがたい現実だった。不思議なことに、古巣を離れて初めて、出版社勤務ではなかったものの、親たちもまた本の仕事に携わっていたのだと気づいた。

その後、何人もの仲間が出版業界を離れた。彼らは口を揃えて「他の業界では、誰も本を読まない」と言った。さらに「未婚だったり子どもがいなかったりするだけで、まるで異端のように見られる」というカルチャーショックを訴える友人もいた。出版業界では、私より少し下の世代から上の世代まで、男女を問わず未婚者や子どものいない既婚者が珍しくなかった。しかし、一歩外へ出ると、それは当たり前ではない。そのギャップに耐えかねて、結局また業界に戻っていく営業や編集者がいた。中には心身の不調を抱える人もいた。私自身、その手前の状態になった。それでも、他業界で習得したいことがあった。

長く続く出版社・取次・書店の構造的問題、以前からの出版不況、インターネットの普及に伴う情報アクセスの容易化、そしてソーシャルネットワークの台頭により、本や新聞が読まれなくなったと言われる。しかし、私は業界の外へ出て、「もともと読まない人の方が多かったのではないか」と考えるようになった。

衝撃はあったものの、業界を移動したことで視野は少しだけ広くなった。愛すべき業界を俯瞰することもできた。さらに、私たちの日常を支える社会のインフラがあることも知った。

出版業界に近い業界で働く知人がいる。子育てをきっかけに親同士の付き合いが始まり、それまで接点のなかった人たちと関わるようになったという。「いかに自分が狭い世界で経済活動をし、友人関係を築いてきたかがわかった」と話していた。

学生時代までに知り合い、連続性のあるかたちで付き合いがある友人や知人、その延長で知り合った人たち、ご近所コミュニティの場合は、本も新聞も読まなくても違和感はない。彼らの中には、エリートサラリーマンもいれば、芸術家や芸能の世界で活躍する人もいる。戸惑うのは、本を読まない人たちが集まる利害関係の経済活動の場なのである。

もし出版の世界から別の業界へ移り、新たな利害関係の中で仕事をするのなら、自分が当たり前だと思っていた世界は、決して世間の標準ではない、と知っておいた方がいい。他の世界で「浦島太郎」にならないために。

私もそのカルチャーショックで、ひどく落ち込む時期があった。しかし、ある種の割り切り方と、新しい働き方の軸(海外企業の仕事など)を見つけたことで、外の世界でも自分の言葉をすり減らさずに生きられるようになった。その具体的な処世術については、また追って詳しく書いていく。ただ、活字媒体企業に直接雇われている正社員や契約社員、嘱託などの40代半ば以上の人に向けて、これだけは先に書いておきたい。

まず、いまだに面食らうのは、「編集」と「営業」という言葉の意味である。古巣の出版業界での意味は、他業界では必ずしも通用しない。就職斡旋業者でも、「編集」と「営業」の意味が、業界ごとに異なることを理解しておらず、企業・斡旋業者・求職者の三者で認識が食い違い、ミスマッチにつながる場面を私は経験したことがある。

次に、他業界では、TeamsやSlackなどの業務チャットを、口頭で会話するのと同じ感覚で使って仕事を進めている。業務の流れそのものがチャットを中心に回る会社も少なくない。また、業務チャット内での絵文字(あいさつ代わりのリアクションなど)の文脈や、カタカナビジネス英語がごく自然に使われている。

新型コロナ禍を経てチャットツールを導入した企業が増えたとはいえ、本格的な活用は経営者の判断に委ねられているのが実情だろう。一社員の立場ではどうにもならないこともあるかもしれないが、今のうちから慣れておいた方がいい。

それから、活字媒体企業は、社内のメールやチャットで「さま」を使い、用件は2~3文、長くても5文でまとめることが多いはずだ。朝日新聞記者の近藤康太郎さんの『三行で撃つ』という、近年における名著があるが、このタイトル通りの世界だ。一方、他業界は「さん」を使う。出版業界を離れた友人は、「さん」と呼び、「さん」と呼ばれることが、踏み絵を踏まされる気持ちになると言っていた。私にも、その気持ちはよくわかる。

「さま」の使用については、以前、出版社や新聞社あわせて20社ほどの人たちに、社内で「さま」を使うのか「さん」を使うのかを尋ねたことがある。聞いた範囲では、全員が「さま」と答えた。もちろん、出版社は数千社あり、新聞社も全国紙、地方紙、専門紙まであるため、すべての会社や部署について確認したわけではない。最近はフラット化の流れで「さん」を使う会社もあると聞く。それでも私が知る限りでは、「さま」が標準のようだ。

外の世界は広い。ただ、備えがあれば、渡れる海でもある。

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本記で触れた朝日新聞記者の近藤康太郎さんの著書はこちらです。
『三行で撃つ:〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

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