出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: 生存戦略

生きる術、生きづらさ、焦燥と選択、完璧主義

完璧な食卓を降りる

少し前に、母と家事の話になった。

改まって話し込んだわけではない。世間話の流れで、母のまわりにいる高齢者たちの暮らしぶりを聞くことになった。聞けば、皆さん、思っていた以上に合理的だった。冷凍野菜や市販のおかずを上手に取り入れ、中には紙皿や紙コップを日常的に使っている人もいるという。

食材は生協でまとめて買い、何でも手作りしていた母でさえ、最近は生協の冷凍おかずを買うことがあるらしい。餃子がおいしいらしい。現在どこの生協を利用しているかは聞きそびれた。

もうすぐ卒寿を迎える父は、食卓に紙皿や紙コップが並ぶのを好まない。だから母自身は使わない。それでも私には、こう言った。「やってみたら。少しは家事が楽になるかもしれないわよ」

母は分かっている。私の毎日の忙しさも、体に抱えているものも。あれは、母なりの、完璧を目指さなくていい、という許可だったのだと思う。

私は十五歳で潰瘍性大腸炎を発症した。以来、水分補給は暮らしの中心にある。毎日四リットル以上の水と海塩を摂るのが私のルールで、特に夏は、コップや水筒を洗っても洗っても、また洗う時間がやってくる。夏が来るたびに、うんざりしていた。

母の言葉を聞いた私は、さっそく近所の百円ショップへ向かった。まずは紙皿と紙コップを一袋ずつ買ってみる。食事を載せると、その軽さに思わず落としそうになった。

今は近所の店を回りながら、厚みや強度を比べて、お気に入りを探している最中である。気に入った品ほどなぜか定番にならないようで、次に行くと棚から姿を消していることもある。それでも、いいものが見つかれば、まとめて買うつもりだ。

もちろん、ゴミは増える。以前、洗い物を減らしたくて五百ミリリットルのペットボトルの水を大量に買っていたことがあった。しかし、積み上がるプラスチックを前にすると、どうしても気持ちが落ち着かなかった。ところが、不思議なことに、紙皿や紙コップには同じ罪悪感を覚えない。

「紙だから」

たったそれだけの、自分勝手な理屈である。それでも、その小さな理屈のおかげで、私の心は少し軽くなった。

コップを洗う回数が減り、食後の皿洗いも減る。毎日の家事は軽くなった。

習慣というものはなかなか変わらず、気が付けばいつもの愛用のコップやどんぶりを使っている時もある。それでも、シンクに立つ時間は、少しずつ短くなっている。

紙コップと紙皿を折ってゴミ箱へ入れるたび、完璧な暮らしを続けることよりも、今日を無事に終えられることのほうが大切なのだ。母が許してくれたのは、紙皿ではない。完璧でいようとする私なのである。

健やかさの残酷

普通の生活を送るには、想像以上の体力がいる。

朝起きる。着替える。食べる。排泄する。風呂に入る。太陽の光を浴びて、日々の糧を得るために働く。そして、他者との関係を維持する。文字にしてしまえばただの日常だが、これらを毎日滞りなくこなすのは、実はとてつもなく骨の折れる作業だ。

私の場合、夜には体力が底をつくことがよくある。健康を維持するため、小分けにしながら毎日五キロ歩くが、「体がきつい」という瞬間がある。夜にうたた寝することもある。私にとって入浴は、休息ではなく体力を使う作業でもある。体も髪も洗い終え、湯船にまで浸かれた日は、それだけで上出来なのである。こういう日は、睡眠も栄養も足りている。また、人さまの仕事に体力を使い切らなかった証拠でもある。すべてを出し切るのが若い時代の働き方というものだが、経験を積んだ大人は、七割に留め、残りの三割は翌日に持ち越す。それがお互いのためなのである。 

命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

平均寿命に、十歳を足して

元気に長生きする。そう決めて、生きている。

2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。

ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。

赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。

異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。

私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。

後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。

発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。

それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。

7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。

地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。

そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。

不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。

その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。

そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。

だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。

出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。

だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。 

海を越えた、唯一の救い

2013年に出版社を退職する前後のことだ。ふと、グローバルな視点で考えたとき、「日本語のネイティヴであること」は、一つのスキルになるのではないかと思いついた。

その発想のまま、イギリスの求人サイトを覗いてみた。すると、とある英語圏の企業で、日本語ネイティヴ向けの業務委託の募集があった。海外事情に詳しい友人にその会社のことを知っているか尋ねると「怪しい」と言われた。けれど、すぐに登録し、音声データの書き起こしなどの仕事を引き受けた。当時のその企業は羽振りが良く、単価も現地の通貨でそれなりに支払われた。ただ、仕事は数週間で終わる単発のものが多く、年間の収入はわずかなものだった。

転機は2016年だ。私は長期入院を余儀なくされ、退院後もほぼ介助が必要な生活を送っていた。ようやく歩けるようになり、身の回りのことや家事が少しずつできるようになったものの、働ける状態にはほど遠かった。強いステロイド薬の副作用で、気だけは無駄に大きくなっていた。焦って雇用の仕事を無理やり決めても、体がついていかずに外で倒れ、見ず知らずの人たちに多大な迷惑をかけてしまうこともあった。

もともと、15歳で難病を発症した頃には、自分はもう、社会の厄介者なのではないかと思うようになっていた。そして、日常生活を送れるようになっても、その後も副作用は次々と現れ、働けず、人の手を借りなければ生きられない自分が情けなかった。恐怖と焦燥感に駆られた私は、アメリカにある同じ疾患の団体のサイトへアクセスした。そこなら、病を抱えながらでも国境を越えてできる在宅の仕事の何かしらのパイプや情報があるのではないかと直感した。 

読みは当たった。イギリスの求人サイトで見つけたような、世界中から人材を集めるグローバル企業は他にも存在していたのだ。

私はすがるような思いで登録し、自分に合う仕事を手当たり次第に請け負った。しかし、海外の仕事は甘くない。彼らの基準は厳しい。高い精度を維持しなければ、事前のテストも受からず、プロジェクトが始まってからでも容赦なく切られる。成績が落ちれば即座に契約終了という厳しい洗礼も浴びた。

だが、そのシビアさが逆に私に火をつけた。「もっとコンピュータを、通信の仕組みを深く理解しなければ生き残れない」。それは、2012年に始めたウェブの勉強への情熱が、より実戦的なものへと進化した瞬間だった。

今や、外国の企業が募集する仕事の情報は、日本語でも簡単に手に入る時代になった。パソコン一台で、ドル建ての報酬を得ている人たちも、ひと昔前に比べればはるかに多いだろう。

あの頃、必死に画面にかじりついていた私にとって、海を越えたその仕組みだけが、唯一の救いだった。 

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