前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。
母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。
今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。
その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。
何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。
思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。
ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。
しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。
結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。
父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。
あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。
