出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

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美意識、言葉の響き

流行より透き通るもの

前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。

母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。

今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。

その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。

何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。

思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。

ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。

しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。

結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。

父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。

あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。

ファッションのセンスを持つ

インターネットもソーシャルメディアもない時代、ファッション誌の存在は特別だった。作り手たちの育ちや経済的な階層は、誌面にも自然と映し出されていた。

読者モデルには、そうした家庭や、戦後に成功したお宅の血筋の子女が、学校名を出して登場していた。ダブルインカムが全く普通ではなかった時代、お父さん一人の経済力だけで、子どもを小学校や中学校から私立へ通わせる家庭は、特別中の特別だった。私が見てきた範囲では、大企業から中小企業まで、企業オーナーや自営業や文化人のお宅、あるいは、祖父母の代、それ以前から東京とその近郊で暮らしてきた家庭の子どもが多かった。

私が育った東京城西地区の公立学校では、クラスの2割に満たないくらいの女子たちは、中学生のときは「オリーブ」「mcシスター」「ジュニアスタイル」「アンアン」を読み、それらは、その子たちの間で回し読みされていった。高校生になったら、これらをチェックして「JJ」を読み、卒業したら、さらに「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」が加わるコースが王道であった。競合誌もあったけど、当時は、これらが一流誌という位置づけだった。バブル期に創刊された「ヴァンテーヌ」は「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」の前に入るかもしれない。私の場合は高校時代に「ポパイ」と「ホットドッグ・プレス」が加わった。

こうした雑誌文化に触れやすかったのは、出版や流通が首都圏に集中していたからだろう。地方では、同じ雑誌でも発売日や入手のしやすさに差があることを、後に出版社で働くようになってから知った。

令和になった今でも、出版社が作るファッション誌には知性がある。もちろん当時もそうだった。編集部には、雑誌を入口に本へ読者を導こうという考えもあったのだろう。私が山田詠美さんの作品に出会ったのも、マガジンハウスの「オリーブ」に連載されていた『放課後の音符』がきっかけだった。以来、今もずっと大好きな作家で、サイン会にも何度も足を運ぶほど夢中になった。

中学時代から読んでいたファッション誌からは学ぶことがたくさんあった。私は、ファッションセンスは親の影響が半分以上だと考えている。親もその親がいるわけだから、もはや遺伝に近い。そして、親が言葉にしなかったことは、雑誌の写真や文章が教えてくれた。

四畳半の書棚と、耳から読む本

私はアマゾンのAudible(オーディブル)という、月額制のサーヴィスの音声書籍をよく利用する。なぜ「よく」になるかというと、翌月、聞く時間が取れないとわかっているときは、いったん退会するからだ。

何年も前に初めて利用した時は、配信タイトルが少なかった。試しにダウンロードした、日本語版を熟読していたフランス人著者の社会科学系の英語の本は、朗読者の声がかすれてきて、聞くに耐えられなかった。日本語のタイトルにも限りがあった。ファンではないが、ビジネス系というか自己啓発系の、ある本も聞いてみた。読み手は著者だった。その著者はライターを使って本を書くことを公言していた。どうしても本人の言葉として聞こえてこなかった。さらに、この方は媒体で標準語を話そうとしているのはよくわかっていたのだけど、朗読となると、出身地のイントネーションが丸出しになっていた。私は東京で生まれ育ったが、その土地の方言やイントネーションやアクセントをよく知っている。ファンでなく、むしろ好きではない人だが、一生懸命読んでいる分、聞いていてしんどくなってしまった。数分で聞くのをやめ、サーヴィスを停止した。

その後に利用を再開すると、プロによる朗読が増えていた。タイトルも増え、数年前から今にかけて、さらにいろいろな作家や文筆家の本が聞けるようになっている。

私は、家事をやりながら聞いている。なんらかの理由で避けていた古典、読もうと思っていたのに忘れていたもの、紙の本で何度も読んだものなどを、1.5倍速くらいにして聞く。長編や上下巻ものでもあっという間に聞き終わる。時々、この書き手にはこの朗読者の声は合わないのではというものもあるが、発声の訓練をした人たちは、やはりうまい。特に、ヴェテランの俳優さんや女優さんが読む小説はとてもいい。AIが読んでいるものもあるが、だんだんと賢くなっていて、不快ではない。でも人間の声のほうが好みではある。

Audibleを利用するのは、読書の習慣があり、かつ音声で本を聞ける環境にある人たちなのだろう。玉石混交のコンテンツに囲まれる昨今、出版社が発行する本にプロの朗読で触れられるとは、贅沢な時代になったものだ。

物心がついた時に視界に入ってきたものは、母と父の姿と、平屋の木造官舎の二間のうちの四畳半を三方から囲むスチール製の本棚だけだった。読書中は、ほんの短い時間でも、本に囲まれた空間ができる。耳から聞く本もまた同じである。

 

のぞいてみてください。
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