出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: 自己対話

思考の整理、感情の言語化、答え合わせ、言葉の居場所、過去との対話

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

荒野に、もう一つの看板を

私が、Bloggerでブログを始めたのは、2013年だった。翌年1月2日、現在のこのサイトへ移り、16年に潰瘍性大腸炎(UC)が再燃して病床に伏していた時期を除けば、21年の夏まで、言葉を置き続けてきた場所である。

十数年前、周りに、自分で個人サイトを一から育てる人はほとんどいなかったと記憶している。出版社の人も、レコード会社やレーベルの人も、芸術家も、大企業に勤める人たちがたくさんいた。ソーシャルメディアを使う人は増えていたが、自前のサイトを持ち、土台から組み立てる人には、ほとんど出会わなかった。

聞ける相手は一人もいなかった。専門用語ばかりの本を買い込み、画面の前で唸りながら、一つひとつ検索して意味を覚えた。会社員のかたわら、音楽配信レーベルを立ち上げ運営していたときも同じだった。サイトを組み立て、Googleという世界最大級の広告システムの仕組みを知り、SEOやAdSenseを学び続けた。

当時は、無料のSNSやブログサービスを片っ端から借り、このサイトへの入口を作っていた。それぞれにリンクを貼り、「無給で24時間働く営業マン」としてネットの海へ送り出していたのである。

ブログを再開してからは、その古びた営業マンたちの後片付けをしている。放置されたアカウントや切れたリンクを見つけるたび、ノートに書き出し、あちこちに「掃除中」の札を掛けて歩く。

借りた場所は、借りたままにしない。一つひとつ閉じたり、片づけたりする作業は面倒だ。それでも終えるたびに、部屋の空気が少し軽くなるような気がする。

その中で、いくつか残すことにした場所がある。そのうちの一つがnoteである。

7月25日、ブログ再開をnoteで知らせた。それから8月6日、二本目の記事を公開した。プロフィールには、「一篇一銭」と書いた。毎日の文章に、もう一つの価値を。

このブログには、これまで通り、日々の暮らしや考えを置いていく。noteには、仕事や暮らしの中で得た経験を整理し、誰かが明日から使える知恵として届けたい。実用書やビジネス書に近い文章は、そちらに少しずつ並べていくつもりでいる。

13年前、何もない荒野で一人、看板を立てた。あれから何度も立ち止まり、病気で休み、道を変えた。手を動かしている限り、この店は続く。あの日の看板は、風雨にさらされながらも、まだ折れていない。だから今日、もう一つの看板を掲げた。

https://note.com/realkeijp

快適と停滞

最近、三十九円のピーマンで半日を棒に振った。その日はどうしても、油揚げとピーマンを軽く炒めたものが食べたかった。最近の私は油揚げに凝っている。どうやら油揚げというものは、素材がよく、それなりに値の張るもののほうがおいしいらしい。

本当は、ししとうで作りたかった。しかし、私には刺激が強すぎるかもしれないと思い、スーパーで安売りされていた三十九円のピーマンを手に取った。

安かったことが問題だったわけではない。長年の経験で、自分にはピーマンが合わないことを知っている。それでも、食べたかったのである。おいしかった。

食後しばらくして、唇がビリビリとしびれ始めた。嫌な予感がした。気持ち悪さがじわじわと押し寄せた。血圧計を見なくてもわかる。長年付き合ってきた低血圧の体は、危険信号の出し方を私に教え込んでいる。慌てて正露丸を一粒飲み込んだ。

喉が痛いときも、鼻の調子が悪いときも、私はとりあえず正露丸を飲む。潰瘍性大腸炎には効かないことも、医学的には正しい対処ではないことも承知している。それでも手が伸びるのは、父の影響だ。

父は、大学を卒業してから定年まで勤め上げ、その後も八十歳まで働き続けた。突然体調を崩して仕事を休むような人ではなかったが、熱が出ると決まって正露丸を飲んでいた。その姿を見て育った私は、この十年ほど、父の癖をそのまま受け継いでいる。

もっとも、今回ばかりは正露丸も歯が立たなかった。寝不足も重なり、私は半日横になって過ごすことになった。

私には、食べ物についていくつものルールがある。それは本やインターネットで覚えた知識ではない。何十年もの失敗を重ね、体を張って覚えた経験である。ピーマンも、その一つだった。

ルールというものは、思いつきでは作れない。痛い目を見て、失敗を繰り返し、その経験が体に刻み込まれて初めて、自分だけのルールになる。そして、そのルールを守り続けることで、やがてルーティンになっていく。

今、私は余暇のほとんどを、このブログの構築に注ぎ込んでいる。更地に家を建てているわけではない。二〇一三年から二〇一八年頃まで本格的に書いた記事や、その後、二〇二一年八月まで細々と続けていた投稿はすでに下書きにしていたが、手を入れながら作り直している。WordPress.orgの投稿を、一つひとつ読み返すことはない。膨大、その余裕がない。 

しかし、宣伝用に無料ブログを利用していたことで、タイトルなどは見ることになる。恥ずかしい。

それでも、過去の自分と向き合うたび、不思議と目は未来へ向く。

近年、時間は過去から未来へ流れていくものではなく、未来から現在へやって来るものなのではないかと思うようになった。だから未来は、待つものではない。迎える準備をするものなのだ。

ぬくぬくと快適な場所に居続けることは心地いい。だが、その快適さは、ときに人を停滞させる。

十三年前、出版社を辞めたときも、同じような思いがあった。会社が続く限り、定年まで働くことはできただろう。それでも私は、その先の自分を想像したとき、このままでは立ち止まってしまう気がした。

新しいことを覚え、小さな目標を立て、一つずつ越えていく。今いる場所の外へ出る作業は、体力も気力も使うし、決して楽ではない。

それでも、このブログを整える時間、書く時間は、楽しい。過去を片付けることは、未来を迎える準備でもあるし、執筆は、自分に向き合える。

三十九円のピーマンで半日を失った私は、また一つ、自分のルールを思い出した。

生きる力、怒る力

怒るのは、とにかく体力を使う。だからここ十年ほど、私のスタイルは、流すことだった。

若い頃を思い返せば、穴があったら入りたい失敗ばかりだ。怒ってばかりで、血の気も多かった。思い出すたびに気恥ずかしくなるようなことも少なくない。もうあの頃には戻りたくない。過去ではなく、未来へ進むしかないのだから。

病と向き合い、副作用に耐え、ただ息を潜めるように暮らしていた時期を経て、少しずつ身体を取り戻してきた。

すると、ある日ふと気づく。元気になると、怒る体力まで戻ってくるらしい。

今月に入ってから、理不尽なシステムと大きな組織に振り回され続けていた。以前の私なら、「大人の対応」という便利な言葉で自分を納得させ、小さな怒りを心の底へ沈め、そのまま流していただろう。

しかし、受け流した怒りは消えてくれない。静かに積もっていくだけだ。流し続けるのは、もうやめよう。力を取り戻した今の私には、怒る力も、抗う力もある。とはいえ、本当の怒りを形にするのは途方もなく骨が折れる。

感情をそのままぶつけても伝わらない。何に怒っているのかを整理し、事実を並べ、相手に届く言葉へと言い換え、文章として組み立てていく。

気づけば、半日近くキーボードを叩き続けていた。ヘトヘトだ。しかも全部、英語だ。

それでも、今は少しだけ心強い。

手元のテクノロジーが、感情ではなく論理として文章を組み立てる手助けをしてくれる。結果がどうなるかは、まだわからない。文章を送り終えた今も、身体は疲れ切っている。それでも、後悔はない。

理不尽をそのまま飲み込まず、自分の言葉で向き合った。そのために使った体力なら、惜しくないと思えたからだ。

怒ることにも体力がいる。

昔は、その体力を怒りにばかり使っていた。UCが再燃してからは、その体力さえ失い、怒ることより、生き延びることを優先する毎日だった。

怒りは大人げないことではない。自分を守る力が戻ってきたということなのだ。生きる力は、怒る力でもあるのだ。

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

鏡の中の二つのパーツ

『人は見た目が9割』という本が売れた時代があったが、大人の第一印象は、もっと単純なのではないか。 

結局、髪のまとまりと眉毛なのだ。

若い頃なら、少し乱れた髪やくせ毛も無造作な魅力で済んだかもしれない。だが、大人になってからの無造作は、下手をするとお疲れ気味に見えてしまう。私は、くせ毛なら潔く短く切るか、ひとつに結ぶくらいが、一番きれいに見える。ソフィア・ローレンのような髪に憧れても、自分の手だけで近づけるには限界がある。勝負の日くらいは、黙って美容師さんに頭を預ける。私自身、量が多く太いくせ毛なので、髪には少々うるさい。18歳から三十年以上通う美容師さんにも、毎回苦労をかけている。

学生時代までは、渋谷や原宿を歩いているだけで、いつの間にかストリートスナップの被写体になっていることがあった。「その髪、どこでやったんですか」と声を掛けられることも少なくなかった。この話は、またいつか。

そして、眉毛。ここにもその人の今が出る。描く前に必要なのは、普段のお手入れである。まずは眉毛サロンへ行ってみてもいい。プロの仕事を知り、土台を整えてから、初めて描く作業に入るのだ。昔雑誌で読んだ、メイクアップアーティストの藤原美智子さんの教えを参考に整えたこともあるが、プロの眉には理屈がある。

モデルや女優さんが美しいのは、写真を撮られる機会が多いからではないかと思う。客観的に自分を見る時間が、人よりずっと長い。実は私は、メイク後の自分や、話している姿を毎日写真に収めよう、と思っているのだが、次の日には忘れてしまう。年齢や性別に関係なく、写真や動画で「他人の目に映る自分」を直視する習慣を持てば、少しずつ変わっていくはずだ。鏡の中のキメ顔ではなく、動く自分を確かめること。

洋服も大事だが、印象を決定づけるのは結局、首から上の始末だ。清潔感という目に見えない気配は、高価な服を着ることではなく、自分のパーツと向き合い、整えるための小さな手間なのだろう。

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社会現象にもなった竹内一郎さんの『人は見た目が9割』(新潮社)
藤原美智子さんのMICHIKO.LIFE「エッセンスブロウペンシル レフィル ナチュラルブラウン

歩くことは、私の美容法

毎日、5キロ以上歩く。雨の日も風の日も歩く。距離が延びることもあれば、4キロを切る日もあるが、歩くことをやめない。 

通勤を伴う仕事に就いていれば、ここまで距離を意識する必要はない。そうではないから、自分の中でルールを設定している。 

郊外で暮らし、出版社に勤務していた頃は、毎日10キロ近く歩いていた。日中は、書店や取次を回るなど、歩くことが仕事の一部でもあった。退職後、ほかの業界の仕事をやるようになったが、自宅から最寄り駅までは2キロ近くあった。時間通りに来ないバスを待つよりは歩いたほうが早く、結果として、歩く生活は続いていた。

その後、15歳で発症した潰瘍性大腸炎(UC)が再燃した。1カ月強の自宅療養に続き、1カ月半の入院生活。退院を迎えたとき、私の筋肉量は、80代以上にまで落ち込んでいた。一度、床に座ると、一人では立ち上がれず、階段の段差は、介助なしには上がれない身体になっていた。

実家に頼り、日常生活を取り戻す日々が始まった。最初のリハビリは、家事の一つである調理だった。しかし、20分台所に立つだけで消耗し、横になってはまた起き上がり、料理をして食べるというありさまだった。

「人は老いると、こんなふうに動けなくなるのか」。人生の終盤に訪れるはずの身体の衰えを、私は予定よりずっと早く体験した。厄介なことに、ステロイド治療の影響で、気だけは大きくなっていた。気持ちに身体がついていかず、怪我をしやすい時期でもあった。

退院間際、理学療法士からは、寝込んだ期間の3倍が、体力を回復させるために必要な時間であると聞いた。寝込んでいたのは、約80日。つまり、240日後には元の体力が戻る計算になる。私はその言葉を頼りに、肉親に付き添ってもらいながら、家の周りを少しずつ歩くようにした。

よく寝て、よく食べて、少しずつ家事の幅を広げていった。ステロイドの副作用で、かつらが必要なほど髪の毛が抜け落ちる中でも、歩く距離を少しずつ伸ばし続けた。やがて体重も筋肉量も増え、体力がついてきた。自宅でできる、自分の身体に合った範囲での経済活動も徐々に始められるようになった。その頃には、240日ほどが経過していた。

それでも万全ではない。ようやく髪が生えてきたと思えば、ステロイドの新たな副作用が出てくる。基本的には、いつもぐったりとしていた。このままでは生きていけないと思った。

そんな時、アメリカの進化生物学者、ダニエル・E・リーバーマンの『人体六〇〇万年史』(早川書房)に出会った。その中で、アフリカの狩猟採集民族の一日の歩行距離について触れられている一節があった。「これだ」と思った。女性は一日に7〜9キロほど歩くことを前提に進化してきた。

それからの数年間、私は毎日7キロを目標に歩き続けた。すると、ステロイドの副作用で極端に落ち込んでいた血圧が、元通りの低血圧の数値にまで戻ってきたのである。

やがてフルタイムで働けるまでに回復すると、毎日7キロ歩くための時間を捻出するのは難しくなった。そこで「コンスタントに5キロ」という新しいルールを設定した。

以降、UCの得体の知れない合併症がいつ襲ってくるかという不安は常にあるものの、大きな病気をすることなく日々を過ごせている。

介助なしで歩き、身体の機能を保つこと。私にとって「歩くこと」は、命をつなぐためのリハビリから始まり、今では自分にとっての最高の美容法にもなっている。健康こそ美なのだ。

 

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『人体600万年史(上):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)
『人体600万年史(下):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)

私が私でいるための、食卓の境界線

このブログは、約5年ぶりに再開した。2021年8月を最後に投稿をやめていたが、本格的な更新をしていた2018年2月までは、自分が15歳で発症した潰瘍性大腸炎(以降、UC)のことや、2016年に再燃したときの闘病などについて書いていた。

UC自体は、極端な肉体疲労と睡眠不足がセットになるとよくない症状が出るものの、おかげさまで今は落ち着いている。つい忘れがちになるが、薬もきちんと服用している。というのも、万が一、入院になったとき、服薬を続けていないと、現場の先生方にも負担をかけてしまうことを、2016年の再燃時によく思い知ったからだ。私は発症から7、8年後以降、およそ20年、自己判断で薬を飲まずに過ごしていた。

UCには食の制限があるとしばしば指摘される。だが、私の主治医は、寛解期であれば「体調を崩さないものなら、何でも食べていい」とおっしゃる。

これまでの人生のほとんどを難病とともに歩んできた私は、長年、自分の体で試行錯誤を重ねた末に、あるルールを作った。このルールに沿ってさえいれば、私は極めて快適に過ごすことができる。もちろん、飲食を軸とした人間関係は狭まる。それでも、こんな私のルールを受け入れ、交遊してくれる人たちが多くいることは、本当にありがたいことだ。

そのルールは一度に書ききれるものではないので、今後少しずつ触れていくつもりだが、基本となるのは次のようなものだ。

あくまで、私の場合ではある。

毎日、水を4リットル以上飲み、海塩を20g以上、タンパク質を50g以上摂る。それから、キャベツと辛味のあるものを除いたアブラナ科の葉野菜などを中心に野菜を300g以上、リノール酸を多く含む油を60gほど。離乳期に最初に食べた穀類とは別の、小麦粉製品を食べるようにしている。逆に、食べないものはたくさんあるし、年に数度しか口にしないものも数多くある。陸にいる哺乳類の肉も、外食でエキスが体内に入ることはあるかもしれないが、自ら進んで食べることはない。

この食卓の話には、まだ続きがある。

【訂正】本文中の野菜の記述に誤りがありました。キャベツと辛味のあるものは食べません。お詫びして訂正します。(2026年8月3日追記)

日記は、誰にも見せない

ある時から手書きで日記をつけるようになった。

それまでは、不定期に、紙のノートや、誰にも見せないデジタル媒体に何かを綴っていたが、記録は統一した方がよいと思ったし、デジタル媒体には、常に第三者の存在を意識せざるを得ない。デジタル媒体の向こうには、常に「誰か」がいる。

日本全国の文房具店で扱う昔からある小さめの大学ノートに、「誰か」を気にせず、書くことにした。

前日の事実だけを淡々と記すこともあれば、喜びや怒りを書くこともある。その日の大切な予定を忘れないためにメモすることもある。とにかく、その時思ったことや考えついたことを書く。

日記には、デジタル化していないことがたくさんある。私が死んだら、すぐに発見されて、多少の資料にはなるかもしれない。読みづらい字かもしれないけど。

ペンは、いろいろ試したところ、定番として使うノートには、インクの滑りがいいものが良いことがわかった。気に入って使っているものがある。

書く時間は、朝である。

理想は、起床し、コーヒーをいれ、顔だけ洗って、スマホも見ずに、パジャマのままで20分くらいかけて書くこと。

しかし、日々の忙しさのなかで、こういったことは時々しかできない。

現実は、起きて、身近な人からの連絡チェック、コーヒーをいれながら身支度、散歩(スマホを見ながら)、洗濯と掃除、ヨガ、日記に1-2分、仕事の準備、という流れになる。

日記に1-2分は短いようで長い。でも、いろいろなことが書ける。すっきりする。本当は夜に書くのがいいのかなと思いつつ、とりあえず朝だけ書く。

手書きの日記は、私にとって記録であると同時に、頭と心を整理する時間でもある。

だから今日も、朝、ノートを開く。

 

朝の時間に使っている、定番のノートとペンです。
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