出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: 記憶と引き出し

記憶の輪郭、体の記憶、暮らしの手ざわり、記憶の整理、記憶,、ルーツ、身体の記憶

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

祖父の名前をたどる

少し前、SNSを眺めていたら、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って自分のルーツを調べることが、一部の人たちの間で静かな流行を見せていた。

親族の中に文献を残した人が何人かいる私も、そのアーカイヴをたどってみることにした。著作の多かった大叔父の名前があることはわかっていたが、念のため祖父の名前も入れてみた。わりとすぐに見つかった。

長崎に生まれた祖父が、東京の私大を出ていたことは、近年になって知った。祖父が若い頃、東京で暮らしていたこと自体が、私には意外だった。

その後、故郷のミッションスクールで国語の教員をしていたことは前から聞いていたが、デジタルアーカイヴをたどるうち、教壇に立つかたわら、編集や校正といった活字にまつわる仕事にも携わっていたことを知った。多くの本を残した大叔父だけでなく、祖父もまた、活字の世界に身を置いていた。

私は、祖父の顔を知らない。母もまた、自分の父親の顔を知らない。祖父は、母が生まれる約1カ月前、長崎の原爆で死んだ。

出産を間近に控えた祖母は、大分にある実家に身を寄せていた。祖父は夏休みの間、祖母の顔を見るために大分へ来ていたという。そのまま留まっていればよかったものを、祖父は長崎へ帰る汽車に乗った。教え子たちが、学徒動員で三菱系の工場で働いている。彼らの顔を見に行かなければ、と。

8日のことだったのか、あるいは9日の朝一番だったのか。大分から長崎へ向かった祖父の正確な足取りは、もう誰にもわからない。

遺骨もないからだろうか。母も、すでに他界した伯父も、よく口にしていた。実はどこかで生きていたんじゃないかと。私も、時々思った。実は、新しい家庭があったんじゃないか、とか。 

長崎出身の友人のおじいさまは、広島で被爆し、その後長崎へ戻って再び被爆したそうだ。それでも80代までご健在だったという。同じ8月でも、人の運命はこんなにも違う。

1978年、大叔父が取り仕切ってくれた三十三回忌の法事の記憶が、かすかにある。生きて会うことは叶わなかった人。それでも、名前の入った文献を読むと、自分にも同じ血が流れているのを感じる。

記録を残すというのは、なんて心強いことだろう。顔も知らない祖父との距離を少し縮めてくれる。

そして、その足跡は、何も紙やアーカイヴの中だけにあるのではない。今日のこの一行も、誰かと誰かを巡り合わせるものになるのかもしれない。

荒野に、もう一つの看板を

私が、Bloggerでブログを始めたのは、2013年だった。翌年1月2日、現在のこのサイトへ移り、16年に潰瘍性大腸炎(UC)が再燃して病床に伏していた時期を除けば、21年の夏まで、言葉を置き続けてきた場所である。

十数年前、周りに、自分で個人サイトを一から育てる人はほとんどいなかったと記憶している。出版社の人も、レコード会社やレーベルの人も、芸術家も、大企業に勤める人たちがたくさんいた。ソーシャルメディアを使う人は増えていたが、自前のサイトを持ち、土台から組み立てる人には、ほとんど出会わなかった。

聞ける相手は一人もいなかった。専門用語ばかりの本を買い込み、画面の前で唸りながら、一つひとつ検索して意味を覚えた。会社員のかたわら、音楽配信レーベルを立ち上げ運営していたときも同じだった。サイトを組み立て、Googleという世界最大級の広告システムの仕組みを知り、SEOやAdSenseを学び続けた。

当時は、無料のSNSやブログサービスを片っ端から借り、このサイトへの入口を作っていた。それぞれにリンクを貼り、「無給で24時間働く営業マン」としてネットの海へ送り出していたのである。

ブログを再開してからは、その古びた営業マンたちの後片付けをしている。放置されたアカウントや切れたリンクを見つけるたび、ノートに書き出し、あちこちに「掃除中」の札を掛けて歩く。

借りた場所は、借りたままにしない。一つひとつ閉じたり、片づけたりする作業は面倒だ。それでも終えるたびに、部屋の空気が少し軽くなるような気がする。

その中で、いくつか残すことにした場所がある。そのうちの一つがnoteである。

7月25日、ブログ再開をnoteで知らせた。それから8月6日、二本目の記事を公開した。プロフィールには、「一篇一銭」と書いた。毎日の文章に、もう一つの価値を。

このブログには、これまで通り、日々の暮らしや考えを置いていく。noteには、仕事や暮らしの中で得た経験を整理し、誰かが明日から使える知恵として届けたい。実用書やビジネス書に近い文章は、そちらに少しずつ並べていくつもりでいる。

13年前、何もない荒野で一人、看板を立てた。あれから何度も立ち止まり、病気で休み、道を変えた。手を動かしている限り、この店は続く。あの日の看板は、風雨にさらされながらも、まだ折れていない。だから今日、もう一つの看板を掲げた。

https://note.com/realkeijp

白と藍の壺の中

子どもの頃から、我が家の食卓には当たり前のようにぬか漬けが並んでいた。母が毎日、ぬか床から上げていた。私は、きゅうりの古漬けが大好きである。

ある夏、両親の郷里である長崎と大分へ、家族で帰省することになった。留守の間、母は官舎で親しくしていた近所の人に、ぬか壺の世話を頼んで出かけた。私の幼なじみのお母さんでもあった。

一週間か二週間ほどして東京へ戻り、母がお土産を手にお礼へ伺うと、思いもよらない話を聞かされた。そのお宅は、急に山形の実家へ帰っていたという。

では、我が家のぬか床はどうなっていたのか。

小母さんは、壺ごと車に積み込み、山形まで連れて行ってくれていたのだった。ご実家でも毎日かき混ぜ、帰りの車にもまた一緒に乗せてくれたそうだ。

今思えば、当時の車は、全く快適ではなかったはずだ。それでも、母から預かったぬか床を連れて行ってくれた。その話になるたび、母は今でも「本当に申し訳なかった」と笑う。

几帳面な母でも、ときにはぬか床をだめにしてしまうことがあった。だが、一から作り直すことはしない。贔屓にしていた新宿の百貨店の漬物売り場へ行き、顔なじみの店員さんに「少し分けていただけないかしら」と頼んで、熟成した種ぬかを分けてもらう。もちろん、ぬか漬け以外の漬物も買っていた。そんなやり取りが自然に成り立つ時代だった。百貨店は、まだ庶民のための店だった。

一人で暮らすようになり、いつの間にか、あの匂いは食卓から消えていた。時おり、無性に食べたくなって八百屋やスーパーで買うこともあったが、子どもの頃から当たり前にあったものが、思いのほか高いことに気がついた。

そんなわけで、去年の夏、ようやく私もぬか漬けを始めることにした。近所の自然食品店で、母が使っていたのと同じぬかを見つけ、種ぬかなしで始めた。

問題は、容器だった。実家にあったような大きな壺は、一人暮らしの身にはあまりに大きい。ネットで調べると、ホーローに入れて冷蔵庫で管理している人が多いようだった。

だが、毎日手を入れるものだからこそ、気に入った器を使いたかった。古美術店を何軒か覗いて歩き、ようやく出会ったのが、白地に濃い藍で梅の枝と人物が描かれた、茶道具の水指だった。「ぬか漬け用なんです」と話すと、店主は少し笑って、勉強してくれた。

あれから、まもなく一年になる。月に二度ほど新しいぬかを足しながら、味もすっかり落ち着いてきた。今の季節なら、ゴーヤやナスを放り込んでおく。水指の蓋を外し、野菜を取り出す。その一連の動きが、いつの間にか私の日常になった。

思うようにいかない日もある。そんなときでも、底からゆっくりとかき混ぜていると、今日の暮らしを育てている気持ちになる。

ぬか床は、急かしても育たない。それでも、手をかけた時間は、味になって返ってくる。それが、私に明日へ向かう力をくれている。

三十四年前の白い泡

最近の私は、風呂場にある、ふきん用のせっけんで体を洗っている。整髪料を多めにつけた日は、シャンプーの前にそのせっけんで頭まで洗ってしまう。

驚かれるかもしれないが、私には三十四年前からの伏線がある。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のご夫妻が、まさにそのやり方だった。夫妻は見とれるほど肌が美しかった。

二十歳からの数年間、一度お店を離れて再訪した時期も含め、夫妻の佇まいはずっと変わらなかった。世の中はバブルが弾け、じわじわと時代の空気が変わりつつあった頃だ。

当時、「無添加」や「オーガニック」という言葉は、今ほど身近ではなかった。自然食品や海外の硬水は、まだ一部の人だけが知る世界だった。だが、夫妻からは、何かを主張するような雰囲気を感じたことは一度もない。自分たちが心地よいと思う暮らしを、静かに続けている。

奥さんは、当時珍しかったフランス産の高価な硬水を日常的に飲み、ふきん用のせっけんで全身を洗い、ほんの少しの化粧水で手入れを終えていた。一方、高校生の頃から制服の威力を背に百貨店のカウンターでサンプルを集め、顔に基礎化粧品を塗りたくってきた私は、豊かな消費に浸りながらも、夫妻の飾り気ない削ぎ落とされた姿勢に憧れを抱いていた。

当時の私は、髪で遊ぶことに夢中だった。スパイラルパーマにコーンロウ。整髪料も惜しまなかった。そんな髪は、固形せっけんだけではどうしても洗い流しづらく、液体シャンプーが手放せなかった。ちょうどその頃、都市部の大型雑貨店には海外のハーブ製品が少しずつ並び始め、私もまた、新しいものを試す楽しさへと流れていった。

その後、出張の多い会社員生活を経て、十年前、誰にも会わない入院生活を機に、失敗続きだった何も塗らない美容法へ一気に舵を切った。

そして今夏、ふと風呂場のふきん用せっけんが目に留まった。包装を替えれば、高価な無添加せっけんと言われても信じてしまいそうな、四角い白いせっけん。久しぶりに使ってみると、肌は思いのほかさっぱりし、背中までつるりとしていた。

普段は、この七、八年、マルセイユせっけんを愛用している。その定番があるからこそ、今回のふきん用せっけんは、夏のさっぱり感を求めた一時的なブームで終わるのかもしれない。それでも、遠回りをした末に、結局、これが一番落ち着く、と笑えるのは、なんだか面白い。

三十四年前には続かなかった暮らしが、ようやく今の私にはしっくりくる。ささやかで快適な夏の答え合わせである。

流行より透き通るもの

前年十二月中旬に小平の木造平屋の官舎を離れ、中野区の官舎へ越して初めて迎えた、桃の節句の頃のある土曜日だった。私の七歳の誕生日会のことだ。

母は、鶏の唐揚げや野菜スティック、竹の子や干し椎茸を炊き込んだ酢飯に錦糸卵、鮮やかなピンクの桜でんぶと緑のインゲンを散らしたちらし寿司を作ってくれた。さらに、手作りのケーキや、お正月にしか食べられない市販のポテトチップスまでが並び、私の誕生日のためにクラスの六人を招いて精いっぱいもてなしてくれた。

今思えば、なんと大変な準備だったことだろう。家庭というものはどうしても下の子中心に回りがちだ。だからこそ、母が私のためにそこまでやってくれることが、とても嬉しかった。

その土地には、誕生日会に来てくれた子にお返しを渡す風習があった。父が新宿の靖国通り沿いの雑貨屋で見つけてきたのは、手のひらサイズのコルク瓶と、水色のガラス玉だった。ガラス玉を五粒ほど、小さなコルク瓶に入れた。

何に使うものというわけでもない。それでも、透き通るガラス玉の入った小瓶は、とても特別なものに思えた。幼い妹と覗き込み、なんて綺麗なんだろうと胸を躍らせた。白い小さな紙袋も用意してくれていた。当時「センス」という言葉は知らなかったが、小瓶も白い小さな紙袋も、「なんか、いい」と強く惹きつけられたのだ。

思えば、母もセンスの良い人だった。私たちは普段、新宿伊勢丹六階の子ども服売り場で、庶民が買うピノチオを着ていた。同じ階には、私たちとは違う空気の流れる売り場もあったが、それもごく当たり前の景色だった。何かある日はファミリアだった。私には紺、白、エンジ、妹には桃色や茶色があてがわれた。色白で茶色の髪、赤い唇をした妹によく似合っていた。キャラクターものはスヌーピー、サンリオならパティ&ジミー。キティやキキララではだめだった。それから、ジェジェちゃんも何体かあった。私たちは、そんなシックなもの ものに囲まれて育った。

ガラス玉を小瓶に収め、白い小さな紙袋に入れる「お返し」は、今になって思えば、あれは白樺派を学び、民藝を愛した父らしい選択だった。もちろん当時の私たちにそんなことはわからない。それでも、父がこの「なんか、いい」ものを選んでくれたことが、とても誇らしく、当然、招待した六人も喜んでくれると信じて疑わなかった。

しかし週が明けると、苦い現実が待っていた。お返しは当時大流行していたサンリオの文具でなければ嫌だという不満が出ていると、招待客の一人から聞いたのだ。誰のことか、だいたい見当はついていた。転入してから、親の職業や学歴による、大人の世間体や格付けが透けて見えるような理不尽さが、子どもながらに、その空気だけは感じ取れるようになっていた。

結局、母と近所のサンリオショップへ走り、キャラクターものを買い直して配る羽目になった。母の悲しそうな横顔と、父の選んだ美しい小瓶が否定された悔しさは、幼い心に強く刺さった。

父はお世辞にも器用な生き方ができた人ではない。けれどあの日、父が選んだ透き通るガラス玉の価値は、流行のキャラクターや世間の値踏みなどに決して負けていなかった。三歳の妹と私が直感的に見抜いた美しさの確信は、何十年経っても色褪せない。

あの日、父が選んだ小さなガラス玉は、流行よりも長く残る美しさがあることを、私に教えてくれた。妹もきっと、同じ景色を覚えているだろう。

手間という名の隠し味

梅雨が明け、酷暑が続いている。火を使う料理を億劫に感じ、この季節はどうしてもサラダの出番が増える。

私の定番、小松菜を洗い、食べやすい大きさに切り、ぶつ切りにしたきゅうりを添える。網に入れて冷蔵庫で冷やし、パラパラと海塩を振る。

そして、この夏、何十年ぶりかで再開した儀式がある。きゅうりのアク抜きだ。

両端を切り落とし、その断面同士をくるくると擦り合わせる。しばらくすると、じわじわと白い泡状のアクが浮かび上がってくる。子どもの頃、両親が当たり前のようにやっていたあの所作だ。たったこれだけの手間なのだが、私には、青臭さがやわらぎ、瑞々しさが増したように感じる。 

昔、テレビで見かけた大物歌手の話を思い出す。行きつけの中華料理店のもやし料理についてだ。あまりに美味しく、店主に理由を尋ねたそうだ。答えはシンプルで、もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ手作業で取り除いているから。その話だけは、不思議と何十年たった今でも覚えている。

もやしのヒゲ根と芽を一本ずつ取る手間に比べれば、きゅうりのアク抜きはほんの一瞬で終わる。

きゅうりの値段は日によって乱高下するけれど、どんなに手頃な食材でも、手をかけることで特別になる。ひと手間を惜しまない日が、案外いい一日なのかもしれない。何気ない毎日であっても、小さな手間を重ねるだけで、少しだけ味わい深くなる。そんな予感が、かすかな希望になる。 

書いていたら、無性にもやし食べたくなってきた。暑いけれど、今夜は、もやし料理に挑戦してみようと思う。

ポケットの底の沈黙(三/全三回)

「ポケットの底の沈黙(二/全三回)」からの続きです。

何度も何度も囲い込まれそうになりながら、なぜ私は一度もあちら側に足を踏み入れずにいたのか。

理由は二つある。一つは、何十年もの間、自分自身で人体実験を重ねながら、食のルールを築いてきたこと。もう一つは、私には簡単には揺らがない拠り所があることだ。 

私の両親の実家は、分家ではあるが、江戸時代から続く寺である。親戚のほとんどが僧侶で、祖父も、大おじ、大おば、おじ、おば、いとこもはとこも、その子どもたちも、皆、お寺の中の人だ。幼少期、夏や冬にそこへ行けば、毎晩のように誰かしらがお経をあげていた。私たちは、死を怖がらない。親戚の誰かが亡くなれば、荼毘に付す前の姿の写真が、何事もないように送られてくる。

新興宗教のきらびやかな集会や、念仏の響きを聞いたとき、私の中に湧き上がったのは信仰心ではなく、慣れ親しんでいるお経とは違うという感覚だった。ルーツが、私の無意識の領域に絶対的なバリアを張っていたのだ。

孤独や寂しさがなかったわけではない。中年を過ぎた今ならわかる。鍵っ子だった子ども時代、私は、親の保護が欠けた寂しさを抱えていたし、それが人格形成に影を落としていることも自覚している。

人は誰しも、人生のどこかで弱る。病を得ることもあれば、大切な人を失うこともある。そんな時、人は手っ取り早い居場所や救いを求めたくなるものだ。

幸か不幸か、私の場合は、難病と付き合う中で身につけた食のルールと、先祖が遺してくれた目に見えない防波堤がある。しかし大人になった今の私を守るのは、自分自身の手でポケットの底に隠す、小さな沈黙なのである。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

ポケットの底の沈黙(一/全三回)

大人になって学んだ鉄則がひとつある。それは、病気のこと、財布の中身、そして一人でいる時間の多さを、人へ明かすことには慎重になる、ということだ。身体や心が弱ったとき、あるいは少しばかり暮らしに余裕が見えたとき、どこからともなく寄ってくる者たちがいる。   

振り返れば、私の人生の要所要所には、いつも彼らの影がちらついていた。

小学校四年の時だった。私の育った時代、母親がフルタイムで働く家庭は珍しかった。私は学童には行かず、鍵っ子として過ごしていた。それには理由があった。妹の保育園のお迎えという「仕事」があったからだ。

習い事の合間を縫い、夕暮れ時に妹の手を引いて歩く。そんな私に、自転車に乗った担任の女性教諭が声をかけてきた。

先生は、今の私と同じくらいの年齢だったろうか。ご主人は亡くなられていたが、成人してだいぶたつお嬢さんと二人暮らしを楽しんでいる風情の、さっぱりとした良い人だった。

実際、父の終活の際に小学校時代の通知表が見つかったのだが、六年間で、一番良いことを書いてくれていたのがこの先生だった。一、二年生と五、六年生のときの男性担任は「女の子なのに〇〇する」と書き、母は、毎学期いらついていたらしい。

この四年の時の担任は、夏休みには受け持ちの児童を自宅に呼んで、庭でバーベキューをさせてくれるような、親しみやすい存在でもあった。

「ちょっと、うちに来なさいよ」

声をかけられるまま、私と妹は、先生のお宅に行った。しばらくするとインターホンが鳴り、同じ小学校の下級生の親子や、近所の見慣れた顔の人々が集まってきた。何が始まるのかと思っていると、テレビの画面に見たこともない映像が映し出された。

西武球場に埋め尽くされた群衆。その真ん中に立つ男性。私の目に映ったのは、熱気だった。

帰宅後、九歳と五歳の私と妹は、母に、その集会の中心人物を「先生」と呼んで大絶賛の報告をした。母の顔が一瞬で固まったのを覚えている。そういえば、その先生は、いつも教室で読んでいる決まった新聞があった。

私が育った西武沿線の街は、お屋敷街と、政治思想と新興宗教の熱気が隣り合う、不思議なモザイク地帯だった。また、自転車で少し南へ走るだけで、さまざまな宗教の拠点が点在し、境界線を一つ越えるだけで、別の世界に入り込んだような空気が流れていた。    

そして、先生のお宅に呼ばれていたのは、祖父母の代から東京にいる子どもたちだった。しかし、私の両親は地方出身で、うちは核家族だった。さらに、学年で唯一の、学童保育に行かない鍵っ子だった。私は、保護者の目が届きにくい児童だったのだ。

平均寿命に、十歳を足して

元気に長生きする。そう決めて、生きている。

2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。

ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。

赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。

異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。

私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。

後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。

発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。

それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。

7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。

地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。

そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。

不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。

その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。

そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。

だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。

出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。

だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。 

ファッションのセンスを持つ

インターネットもソーシャルメディアもない時代、ファッション誌の存在は特別だった。作り手たちの育ちや経済的な階層は、誌面にも自然と映し出されていた。

読者モデルには、そうした家庭や、戦後に成功したお宅の血筋の子女が、学校名を出して登場していた。ダブルインカムが全く普通ではなかった時代、お父さん一人の経済力だけで、子どもを小学校や中学校から私立へ通わせる家庭は、特別中の特別だった。私が見てきた範囲では、大企業から中小企業まで、企業オーナーや自営業や文化人のお宅、あるいは、祖父母の代、それ以前から東京とその近郊で暮らしてきた家庭の子どもが多かった。

私が育った東京城西地区の公立学校では、クラスの2割に満たないくらいの女子たちは、中学生のときは「オリーブ」「mcシスター」「ジュニアスタイル」「アンアン」を読み、それらは、その子たちの間で回し読みされていった。高校生になったら、これらをチェックして「JJ」を読み、卒業したら、さらに「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」が加わるコースが王道であった。競合誌もあったけど、当時は、これらが一流誌という位置づけだった。バブル期に創刊された「ヴァンテーヌ」は「クラッシィ」か「ヴァンサンカン」の前に入るかもしれない。私の場合は高校時代に「ポパイ」と「ホットドッグ・プレス」が加わった。

こうした雑誌文化に触れやすかったのは、出版や流通が首都圏に集中していたからだろう。地方では、同じ雑誌でも発売日や入手のしやすさに差があることを、後に出版社で働くようになってから知った。

令和になった今でも、出版社が作るファッション誌には知性がある。もちろん当時もそうだった。編集部には、雑誌を入口に本へ読者を導こうという考えもあったのだろう。私が山田詠美さんの作品に出会ったのも、マガジンハウスの「オリーブ」に連載されていた『放課後の音符』がきっかけだった。以来、今もずっと大好きな作家で、サイン会にも何度も足を運ぶほど夢中になった。

中学時代から読んでいたファッション誌からは学ぶことがたくさんあった。私は、ファッションセンスは親の影響が半分以上だと考えている。親もその親がいるわけだから、もはや遺伝に近い。そして、親が言葉にしなかったことは、雑誌の写真や文章が教えてくれた。

四畳半の書棚と、耳から読む本

私はアマゾンのAudible(オーディブル)という、月額制のサーヴィスの音声書籍をよく利用する。なぜ「よく」になるかというと、翌月、聞く時間が取れないとわかっているときは、いったん退会するからだ。

何年も前に初めて利用した時は、配信タイトルが少なかった。試しにダウンロードした、日本語版を熟読していたフランス人著者の社会科学系の英語の本は、朗読者の声がかすれてきて、聞くに耐えられなかった。日本語のタイトルにも限りがあった。ファンではないが、ビジネス系というか自己啓発系の、ある本も聞いてみた。読み手は著者だった。その著者はライターを使って本を書くことを公言していた。どうしても本人の言葉として聞こえてこなかった。さらに、この方は媒体で標準語を話そうとしているのはよくわかっていたのだけど、朗読となると、出身地のイントネーションが丸出しになっていた。私は東京で生まれ育ったが、その土地の方言やイントネーションやアクセントをよく知っている。ファンでなく、むしろ好きではない人だが、一生懸命読んでいる分、聞いていてしんどくなってしまった。数分で聞くのをやめ、サーヴィスを停止した。

その後に利用を再開すると、プロによる朗読が増えていた。タイトルも増え、数年前から今にかけて、さらにいろいろな作家や文筆家の本が聞けるようになっている。

私は、家事をやりながら聞いている。なんらかの理由で避けていた古典、読もうと思っていたのに忘れていたもの、紙の本で何度も読んだものなどを、1.5倍速くらいにして聞く。長編や上下巻ものでもあっという間に聞き終わる。時々、この書き手にはこの朗読者の声は合わないのではというものもあるが、発声の訓練をした人たちは、やはりうまい。特に、ヴェテランの俳優さんや女優さんが読む小説はとてもいい。AIが読んでいるものもあるが、だんだんと賢くなっていて、不快ではない。でも人間の声のほうが好みではある。

Audibleを利用するのは、読書の習慣があり、かつ音声で本を聞ける環境にある人たちなのだろう。玉石混交のコンテンツに囲まれる昨今、出版社が発行する本にプロの朗読で触れられるとは、贅沢な時代になったものだ。

物心がついた時に視界に入ってきたものは、母と父の姿と、平屋の木造官舎の二間のうちの四畳半を三方から囲むスチール製の本棚だけだった。読書中は、ほんの短い時間でも、本に囲まれた空間ができる。耳から聞く本もまた同じである。

 

のぞいてみてください。
Amazon Associates
Audible(オーディブル)

2013-2026 ©RealKeiJP

上へ ↑