出版社を経て情報と活字の世界を歩む管理人が、仕事と暮らしを綴るブログです。2026年7月1日、5年ぶりに再開しました。現在、サイト内を調整中です。

タグ: UC

スーパーにあるもので

私はバターと海塩を大量にとる。もちろん水と野菜もたくさん体に入れる。水は一日4リットル、塩は調理とは別に20グラムほどを塩水にして飲む。バターは90グラムから100グラムだ。野菜は菜っ葉を中心に400グラムくらい。

すべて近所のスーパーで手に入る。

今回はバターと海塩について書きたい。

私は食料品を買うとき、自宅付近の11店舗ほどを利用している。バターは1軒を除いたすべてで扱っている。海塩については後述する。

バターはプライヴェートブランドを含め、雪印メグミルク、明治、よつ葉乳業、北海道乳業など、いくつかのメーカーが似た価格と容量で並んでいる。200グラムだったものを180グラムに変えたメーカーもある。値が上がっても200グラムでよかったのに。

そして、今のところは、有塩を選んでいる。時折、輸入バターが国産100グラムと同等の価格まで下がることがあり、その時はそれを選ぶ。自分の中に、おいしさの順位があり、その日のメインの買い物の行き先にある店で調達する。 

30年ほど前まで、東京の庶民のバターといえば雪印の200グラム箱だった。場所やお店にもよるが、300円も出せば買えた。20年ほど前から店頭の顔ぶれが変わり、種類が増えた。

塩は平釜製法であること以外に条件はない。ある高級スーパーでは、いいメーカーのものを手頃な価格で扱っているから、そこで買っている。不当な値のついた品には手を出さない。例外は、人からもらう旅のお土産だけだ。

食べる物は決まっているわけだから、私は、それを追い求めて生きていけばよい。しかし、この物価高でいろいろを考えている。

値段が上がれば、買う量を減らすという方法もあるのだろう。しかし、私の場合は、何十年かかけて決めた食のルールがある。バターと海塩もである。これは、15歳で発症した潰瘍性大腸炎とともに、私が何十年もかけて見つけてきた、平穏でいられる方法だ。 

毎日1分は、そのいろいろを気にかけて生きていこうと思う。

塩だけで、しみる

私の場合、口にする食材が限られている。味付けは海塩か岩塩だけ、という場合が多い。外食を除き、胡椒も使わない。

昔、市ヶ谷左内町のビストロを友人が予約してくれたことがある。今ほど食事のルールは厳密ではなかったが、哺乳類の肉やほうれん草、キャベツ、芋類を食べない旨を、あらかじめ伝えてもらった。 

到着すると、名物のマダムが言った。「限られたもので作るのは、クリエイティヴなんですよ」。その言葉は、今も覚えている。

お店は、今はもうない。

10年前、潰瘍性大腸炎(以降、UC)の再燃で長期入院した。15歳で発症して以来、初めての再燃だった。

点滴と絶食のあと、脂質を抑えた刻み食が続いた。院内にあったレシピ本や食のエッセイを読みながら、次に自分が口にできそうな食材を探し、退院後の食事を考えた。

ノートには、パスタのレシピが並ぶ。小松菜や水菜を中心に、ソースを変えた料理を考え、絵まで添えていた。

毎日ひもじかった。食べることへの欲求で、頭がいっぱいだった。

今は、使える食材が少ないことを、それほど不自由には思わない。

タイ料理の刺激が恋しくなり、暑くなると必ずやってしまうことがある。使い切りのチリソースを買うのだが、体内に入れると、UCの合併症が出る。やめよう、と決めるが、また翌年にやってしまう。

どうしても食べたければ、外で、人と一緒に食べればいいのである。香辛料は、人と人をつなぐ橋渡しのような役目を果たしているのだから。

家では、塩でいい。

適当に決めていた塩加減にも、どうやら根拠があるらしい。勝間和代さんが提唱する、調理するときの塩分量は、私が適当に入れてきた量とだいたい重なっている。

とはいえ、私の料理を食べたことのある身近な人は、「パンチがない」「味気ない」と言う。それでも、自分で決める塩加減には満足している。

塩だけの味付けが、しみるのである。

十年前の刻み食と、最古の祈り(二/全二回)

十年前の刻み食と、最古の祈り(一/全二回)からの続きです。

入院する何年か前、イギリスの進化人類学者ロビン・ダンバーについて書かれた何かのアートか科学の記事で、「女性の最古の職業はシャーマンだった」という説を読んだ。その時は、「女性の最古の職業は売春婦」ではないのだな、と思った程度だった。

ところが、入院して、いつも食べ物のことを考える日々を送っているうちに、その話が腑に落ちた。

食を得られるかどうかは、天候に大きく左右される。現代ですらそうだ。大昔の人々なら、生きるために必死で祈ったはずである。その祈りを司る人が特別扱いされたとしても、不思議ではない。食べられなければ、何も始まらない。

そんなことを考えていた私は、飢えた身体で、今度は「何かを作りたい」という欲求をノートにぶつけていた。絵を描いていた。これも、食の次に出てきた欲だったのかもしれない。

そして、身体が元気になってくると、もう一つの欲が出てきた。

噛みたかった。

刻み食をありがたくいただきながら、歯と顎は別のものを欲しはじめた。レタスが食べたい。わかめを噛み締めたい。この時に、自分はレタスが好きだということに気がついた。

退院が決まってから、院内のリハビリに通った。筋力は80代よりもないと言われた。身の回りのお世話をしてくださる職員の方からは、「退院してからがスタートですよ」と声をかけられた。

その言葉の本当の意味がわかったのは、家に着いてからだった。病院では車いすで移動していた人間が、これからは自分の足で歩かなければならない。

帰宅する前から、母にはレタスとわかめを用意しておいてほしいと頼んでいた。やめたほうがいいんじゃないの、と言われたが、どうしても食べたかった。退院した日だったか、そのすぐ後だったかは、もう覚えていない。

ボウル一杯のレタスとわかめ。何をかけて食べたのかも覚えていない。シャキシャキ、ザクザクと、音がした。自分の歯で葉を噛み切り、顎を動かして、レタスとわかめを噛み締める。刻み食にするのは自分の顎と歯である。本当においしかった。

今も、小松菜や水菜を中心にしながら、レタス類も食べている。

食べ物には、味や栄養だけではないものがあるのだと思う。歯を使う。顎を動かす。葉や海藻を噛み切る。口の中で小さくして、飲み込む。

ボウル一杯の葉野菜を噛む時、噛めるうちは、噛んでいたいと思うのだった。

十年前の刻み食と、最古の祈り(一/全二回)

私は毎日、葉野菜をたくさん食べる。その中でも、アブラナ科の小松菜や水菜をよく選ぶ。本当に空腹のときにいただく野菜は、おいしい。とはいえ、それらは好物ではない。好きなのはレタス類だ。

10年前、潰瘍性大腸炎(UC)が再燃し、45日間入院した。

前半を過ごした地元の病院では、消化がよいとされる、とろみのついた甘い入院食が出ていた。私は15歳でUCを発症した少し後から、ときどき身体におかしな症状が出るようになっていた。自分なりの対処法を編み出し、長いことそれでしのいでいたが、この入院中にも頻繁に起きた。食事が原因であることは明らかだった。退院後に検査を受け、のちに反応性低血糖症だとわかった。

入院中、栄養士さんに会ったとき、食事をどうにかできないかと尋ねた。しかし、予算内に収めることが一番大切なのです、とずばり言われた。患者の体調は考えないのですかと聞いたら、無言になってしまった。

職務としては極めて正しくやっているから、仕事ができる人だ。優秀だ。私が食べない哺乳類の肉を避けてくれていたことだけは救いだった。

後半に転院した大学病院では、食事が一転した。流動食の期間を経て出されたのは、パンと、何もかもが細かく刻まれた「刻み食」だった。

お膳が運ばれてくるたび、私は感動した。とにかくおいしく、美しい。そして、食べられるものが限られている私のために、これほど気を配ってもらえる。そのこともありがたく、食事について書くメモには、いつも「ありがとうございました」と書き添えた。

退院間際、栄養士さんが言った。私たちも工夫して作ることがすごく楽しかったです、と。食べられないものが多い、めんどうな患者の食事を毎日用意するのは、どれほど手がかかり、大変だったことか。

転院して2日目には症状も落ち着いていた。入院中、私は、手書きで記録をつけていた。何時何分に誰がベッドに来たか。職員さん、看護師さん、先生。そのときの気持ち。すべてをボールペンで書き残した。

妹の勧めでもあった。それに当時は、携帯端末につなぐと心臓がドキーンとして、身体がおかしくなることがあった。手書きは正解だった。

入院中は、いつもひもじかった。頭の中は食べ物のことばかりだった。

のちに、坂本龍一が、最初の入院中、食べることばかりを考えていたと何かで読んだ覚えがある。病の種類も状況も違う。それでも、食べることを制限された人間の頭が食べ物でいっぱいになることには、よくわかるところがあった。

人は、食べなければ始まらない。


【お知らせ】2026年8月25日午前8時18分更新しました。

食卓を小さくした夏

私は偏食である。ただし、この偏食も何十年もかけて作ってきたものだ。

毎日水を4リットル以上飲み、海塩をたっぷりとる。アブラナ科の葉野菜を中心に野菜を300g以上、タンパク質を50g以上とり、陸生哺乳類の肉は、外食でエキスとして口にする以外は食べない。細かいルールはほかにもある。 

試行錯誤しながら調理するのも楽しく、それが人生になっているところはあるのだが、この夏は多忙で、栄養をとることだけを考えて過ごしている。

行き着いたのは、一日一食と生乳ヨーグルトだ。夜の一食だけはしっかり食べ、それ以外の時間は生乳ヨーグルトで過ごす。

15歳から罹患している潰瘍性大腸炎(UC)とは別に、合わないものを食べると腹痛が起きることがあるが、生乳ヨーグルトは大丈夫だ。バターとチーズの次に馴染んでいる乳製品であり、どこにでも売っている。それに、歯磨きも歯ブラシだけで済む。 

それから、砂糖を摂らない私にとっては、甘みを感じられる食べ物でもある。400gパックを一日に二つ平らげる日もある。これだけで、毎日の生活は軽やかになった。火を使う調理は夜の一回で済む。生乳ヨーグルトは、出先でも簡単に手に入り、ちょっとしたスペースさえあれば食べられる。

調理の手間を省く工夫は他にもある。鶏ひき肉や貝はすぐに火が通る。それから、刺身もいい。小松菜は、細かく切って、あらかじめ塩をふっておいて、食べる直前に洗うだけ。ほかの野菜は、ぬか床に放り込んでおけば、それだけで一品にもなる。油は、たっぷりかける。そして、チーズを添える。ピータンのこともある。

時間が生まれた。

おやつには、家にいる限りは、バターを食べる。これは30年以上前からの習慣だ。今は、一日90gほどをとる。

この忙しい時期を抜けたら、また大好きなパスタを茹でる日々に戻るだろう。だが、究極まで削ぎ落としたこの食生活の中で、気づいたことがある。

人間は、必要な栄養さえ過不足なく満たされていれば、だいたいのことは満足できるようにできているのではないか。世の中の人がみな、十分な栄養と睡眠をとれていれば、世界はもっと平和に回る気がしてならない。

UCの私の場合は、タンパク質を70〜75gをとると力がみなぎる。食べる回数を減らし、中身をミニマムに絞り込んでも、この必要量だけは割らないようにしている。

インディゴとシニヨン(一/全二回)

かつては地肌の健康のためにと始めたヘナだったが、今ではインディゴを混ぜたそれが、月に一度の髪の必需品になった。

私と母はくせ毛である。母は、還暦前後から白髪染めを始めた人なので、私もその血筋を受け継いで、当分は、白いものとは無縁だろうと思っていた。ところが、くせ毛は母譲りなのに、白髪の出方だけは父の遺伝子を色濃く引き継いでしまったらしい。髪全体が白くなったわけではない。ベースは昔からの焦げ茶色にとどまっている。直毛の父は40代にしてすでに白髪が混じり始め、あっという間に真っ白になった人だった。一方で、アラフィフの我が妹は直毛で白髪などは無縁である。時間、体力、お金を浪費せずに、毎日を送っている。

何年か前、ある有名人が白髪染めをやめたと宣言して話題になった。雑誌を開けば「グレイヘアで美しく」といった特集が組まれ、SNSでも国内外を問わず、白髪をおしゃれに楽しむ人たちの姿をよく目にする。眺めている分には、たしかに気持ちのいい潮流だと思う。

ファッションデザイナーの島田順子さんの髪スタイルには、若い頃から憧れていたものだ。ただ、それはやはり特別な世界の話だと思っていた。ところが、普通の人でもこんなに素敵になれるのだと知ったのは、だいぶ前、都内のドイツの文化施設が主催する、食にまつわる催しに足を運んだ時だった。そこに集まっていた年配の日本女性たちは、華美ではない、こざっぱりとした服を着こなしていた。そして、その多くが美しい白髪に真っ赤な口紅をひいていたのだ。知的で堂々としたその佇まいは、素敵だった。

しかし、いざ自分の生活を顧みると、やはり今はまだインディゴ入りのヘナが手放せない。私が白髪を染める理由のひとつは、親が健在だからだ。私には子どもの頃から結婚願望がなかった。そのような形式はおいておいても、親に孫の顔を見せることがなかったのだ。おまけに十代半ばからは難病を抱えた。せめて親の目の前では、まだ黒い髪の娘でいたいという、ささやかな見栄なのである。

もうひとつ、私の白髪には少し厄介な特徴がある。白くなるのは全体ではなく、前髪の少し後ろの特定の部分ばかりなのだ。ネットの情報によれば、頭部のその部分は、腸につながっている説がある。私は、15歳から潰瘍性大腸炎を患っているから、あながち迷信とも言い切れないような気がしてしまう。十代から通う美容院のオーナーは「毛量も多いし、全体の割合からすれば白髪は少ないから、まだヘナで大丈夫」と太鼓判を押してくれるのだが。

実は、インディゴ入りのヘナが、月に一度で済むようになったのは、ごく最近のことだ。それまでの約1年半の特に後半は毎週のように染めないと追いつかなかった。

ミリ単位の意地

5年ぶりにブログを再開して、おかげさまで1カ月あまりが過ぎた。

昔、手探りでサイトを作っていた頃は、Webのことなど何ひとつ分からず、周りに尋ねられる人もいなかった。本を買い、検索画面と格闘しながら、いくつかのサイトを立ち上げてきた。いつの間にかWordPressも難なく扱えるようになっていて、その頃の感覚が身体に残っていたものだから、日銭稼ぎと並行しながら、余暇のすべてを使えば運営できるだろうと高をくくっていた。

甘かった。

テーマの変更に手をつける前に、まず、積もり積もったアップデートの山があった。クラシックエディターに慣れた私には、ブロックエディターが馴染まない。誰もが感覚的に使えるよう進化したことはわかるのだが、かえって不自由に感じてしまう。

セキュリティも、昔と違って厳しい。私の環境では、プラグインを一つ入れるにもWAFに引っかかり、いったん設定を変えなければならないことがある。アナリティクスはGA4に変わり、数字ひとつ見るのにも、いちいち調べることになる。

掃除が必要なのは、ブログの内部だけではない。過去につくった無料ブログやSNSのアカウントも、同じように手を入れる必要があった。

どこに何を置いてきたかを思い出しながら、片っ端からログインを試みる。画面に浮かび上がるのは、昔の自分が書いた文章だ。2016年のUC(潰瘍性大腸炎)再燃より前に書いた文章など、読み返すたびに顔から火が出る。健康がどん底まで落ちるとは、まだ知らなかった頃の私である。

ログインはできても、投稿も更新もされないまま放置されているアカウントもある。実体はないのに、名前だけがどこかに残っている。そういうものを見つけるたび、これは残すべきか、消すべきかを一つひとつ決めていく。懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、過去には戻りたくないと思いながらも、精査する手だけは止めない。

手を動かしているうちに、忘れていたサイトの機能の不備にも気づく。シェアボタンの設置など、以前なら5分か10分で済んだはずなのが、今回はここに書けないほどの時間を費やしてしまった。ミリ単位の配置のズレがどうしても許せず、結局コードを書いて調整することになる。

体調と体力の問題で途切れてしまった5年の間に、Webは「誰でも簡単に」を掲げ、すっきりと単純化されてきたはずだった。だが、素人ながら一つずつ、一人で調べながら構築してきた私には、裏側がかえって複雑に絡み合っているように感じる。昔のWebのほうが、風通しがよかった

これから先、時代はもっと繊細に、もっと複雑になっていくのだろう。それでも、嘆いていても始まらない。AIの力を借りて文章の校正と校閲を行い、別途バナーを作り、数字を追いかけ、管理画面と格闘する。やるべきことは山積みで、スケジュールも体力も、文字通りぱつぱつである。人さまの仕事もあるから、毎日が体力勝負なのである。

それでも今日、また一つ、名前だけの場所を閉じた。残す場所には、少しだけ手を入れた。捨てることも、残すことも、結局は同じ一つの作業なのだと思う。

荒野に、もう一つの看板を

私が、Bloggerでブログを始めたのは、2013年だった。翌年1月2日、現在のこのサイトへ移り、16年に潰瘍性大腸炎(UC)が再燃して病床に伏していた時期を除けば、21年の夏まで、言葉を置き続けてきた場所である。

十数年前、周りに、自分で個人サイトを一から育てる人はほとんどいなかったと記憶している。出版社の人も、レコード会社やレーベルの人も、芸術家も、大企業に勤める人たちがたくさんいた。ソーシャルメディアを使う人は増えていたが、自前のサイトを持ち、土台から組み立てる人には、ほとんど出会わなかった。

聞ける相手は一人もいなかった。専門用語ばかりの本を買い込み、画面の前で唸りながら、一つひとつ検索して意味を覚えた。会社員のかたわら、音楽配信レーベルを立ち上げ運営していたときも同じだった。サイトを組み立て、Googleという世界最大級の広告システムの仕組みを知り、SEOやAdSenseを学び続けた。

当時は、無料のSNSやブログサービスを片っ端から借り、このサイトへの入口を作っていた。それぞれにリンクを貼り、「無給で24時間働く営業マン」としてネットの海へ送り出していたのである。

ブログを再開してからは、その古びた営業マンたちの後片付けをしている。放置されたアカウントや切れたリンクを見つけるたび、ノートに書き出し、あちこちに「掃除中」の札を掛けて歩く。

借りた場所は、借りたままにしない。一つひとつ閉じたり、片づけたりする作業は面倒だ。それでも終えるたびに、部屋の空気が少し軽くなるような気がする。

その中で、いくつか残すことにした場所がある。そのうちの一つがnoteである。

7月25日、ブログ再開をnoteで知らせた。それから8月6日、二本目の記事を公開した。プロフィールには、「一篇一銭」と書いた。毎日の文章に、もう一つの価値を。

このブログには、これまで通り、日々の暮らしや考えを置いていく。noteには、仕事や暮らしの中で得た経験を整理し、誰かが明日から使える知恵として届けたい。実用書やビジネス書に近い文章は、そちらに少しずつ並べていくつもりでいる。

13年前、何もない荒野で一人、看板を立てた。あれから何度も立ち止まり、病気で休み、道を変えた。手を動かしている限り、この店は続く。あの日の看板は、風雨にさらされながらも、まだ折れていない。だから今日、もう一つの看板を掲げた。

https://note.com/realkeijp

渇きと祈りの四リットル

私はコーヒーやお茶とは別に、毎日四リットル以上の水を飲む。夏になれば、その量は六リットル近くになる日もある。人に話すと驚かれることが多いが、私にとっては特別なことではない。生きていくための日課である。

家で飲む水は、何本ものボトルに備長炭を沈めている。外出するときは、五百ミリリットルのペットボトル二本にその水を注ぎ入れる。そのままのこともあれば、生理食塩水より塩分濃度が高くならない程度に海塩を加え、ビタミンCの粉末とほんの少しのサッカリンを入れるときもある。私だけの、自家製ポカリスエットである。

外を歩けば、一リットルなどあっという間に飲み干してしまう。出先で水を買い足せば、今度は体内の塩分が薄まる。そんなときは、昔から愛用している乾燥梅干しのタブレットを口に入れたり、小さなボトルに入れた海塩を水へ加えたりして調整する。水代だけでも決して安くはない。それでも、生きるために必要な出費だと思っている。

私には、十五歳から潰瘍性大腸炎(UC)がある。人生の大半をともにしている疾患だ。最近になって、UCは脱水を防ぐため、水分補給がとても大切だという説明をあらためて目にした。言われてみれば、思い当たることばかりだった。また、心臓が急き立てるように脈打つときは、決まって体が水を求めている。塩分を伴わずに水だけを飲みすぎれば、今度は体が余分な水分を外へ出そうとする。

「そんなに飲んで大丈夫なの」と、よく聞かれる。しかし、私は飲む。飲まなければ、生きていけない。

だから、有事で水が止まったときのことが、いつも頭の片隅にある。水の備蓄はしている。それでも、一日にこれだけ飲む人間にとっては、安心できる量とは言い難い。どれほど備えても、不安がなくなることはない。

先日の熊本の地震でも、私の頭に真っ先に浮かんだのは、水のことだった。

知人に、熊本に実家がある人がいる。地震の知らせを聞いてから、ご家族は無事だろうかと気になっていた。だが、本当に大変な状況に置かれているかもしれないと思うと、軽々しく連絡することもできなかった。

今日になり、ご家族の無事を知り、胸をなで下ろした。同時に思ったのは、この暑さの中で水を必要としている人たちのことだった。

健常者も水がなければ命に関わる。まして、病気を抱えている人や高齢者、小さな子どもたちは、どれほど心細い思いをしているだろう。ニュースを聞くたび、そんなことばかり考えてしまう。

無事が確認できた知人は、自身のお店で義援金を募っている。私も、次に店を訪れたときに寄付をしようと決めた。前回のときも、そうしたように。大きなことはできない。それでも、自分にできることを一つずつ積み重ねるしかない。

今日も私は、いつものようにグラスへ水を注ぐ。当たり前に水を飲めることは、当たり前ではない。そう思うだけで、その一杯は昨日より少しだけ重みを増す。

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完璧な食卓を降りる

少し前に、母と家事の話になった。

改まって話し込んだわけではない。世間話の流れで、母のまわりにいる高齢者たちの暮らしぶりを聞くことになった。聞けば、皆さん、思っていた以上に合理的だった。冷凍野菜や市販のおかずを上手に取り入れ、中には紙皿や紙コップを日常的に使っている人もいるという。

食材は生協でまとめて買い、何でも手作りしていた母でさえ、最近は生協の冷凍おかずを買うことがあるらしい。餃子がおいしいらしい。現在どこの生協を利用しているかは聞きそびれた。

もうすぐ卒寿を迎える父は、食卓に紙皿や紙コップが並ぶのを好まない。だから母自身は使わない。それでも私には、こう言った。「やってみたら。少しは家事が楽になるかもしれないわよ」

母は分かっている。私の毎日の忙しさも、体に抱えているものも。あれは、母なりの、完璧を目指さなくていい、という許可だったのだと思う。

私は十五歳で潰瘍性大腸炎を発症した。以来、水分補給は暮らしの中心にある。毎日四リットル以上の水と海塩を摂るのが私のルールで、特に夏は、コップや水筒を洗っても洗っても、また洗う時間がやってくる。夏が来るたびに、うんざりしていた。

母の言葉を聞いた私は、さっそく近所の百円ショップへ向かった。まずは紙皿と紙コップを一袋ずつ買ってみる。食事を載せると、その軽さに思わず落としそうになった。

今は近所の店を回りながら、厚みや強度を比べて、お気に入りを探している最中である。気に入った品ほどなぜか定番にならないようで、次に行くと棚から姿を消していることもある。それでも、いいものが見つかれば、まとめて買うつもりだ。

もちろん、ゴミは増える。以前、洗い物を減らしたくて五百ミリリットルのペットボトルの水を大量に買っていたことがあった。しかし、積み上がるプラスチックを前にすると、どうしても気持ちが落ち着かなかった。ところが、不思議なことに、紙皿や紙コップには同じ罪悪感を覚えない。

「紙だから」

たったそれだけの、自分勝手な理屈である。それでも、その小さな理屈のおかげで、私の心は少し軽くなった。

コップを洗う回数が減り、食後の皿洗いも減る。毎日の家事は軽くなった。

習慣というものはなかなか変わらず、気が付けばいつもの愛用のコップやどんぶりを使っている時もある。それでも、シンクに立つ時間は、少しずつ短くなっている。

紙コップと紙皿を折ってゴミ箱へ入れるたび、完璧な暮らしを続けることよりも、今日を無事に終えられることのほうが大切なのだ。母が許してくれたのは、紙皿ではない。完璧でいようとする私なのである。

巨万の富と、ひと握りの青菜 

私には、長年の人体実験によって導き出した食事のルールがある。

十五歳で発症した潰瘍性大腸炎。主治医は何を食べても構わないと言うし、この病気が食べ物だけで左右されるわけでもない。それでも私は、不調をきたすものを、少しずつ食卓から遠ざけてきた。好物もその例外ではない。

陸生哺乳類の肉は食べず、葉野菜は、アブラナ科のものを選ぶことが多い。小松菜、水菜、チンゲン菜などである。同じアブラナ科でも、ブロッコリーは食べるが、キャベツや辛味の強いものは口にしない。

真夏になると、できるだけ火を使いたくない。使うとしても、ほんの数分で終わるものがいい。そんな夏に決まって作るものがある。「本多静六のホルモン漬け」だ。

本多静六は、日比谷公園をはじめ全国の公園を手がけた「公園の父」である。薄給から巨万の富を築いた人物としても知られている。晩年まで、かくしゃくとして過ごした彼が実践していたというのが、植物の新芽などをきれいに洗って塩漬けにする、独自の「ホルモン漬け」だった。

さすがに八百屋やスーパーで新芽ばかりを買い揃えるのは難しいので、これを自分流にアレンジしている。小松菜や水菜、時にはチンゲン菜を細かく刻み、塩を振って一晩おく。そして食べる直前にたっぷりの水で洗い、ギュッと絞る。それだけだ。塩は、平釜製法の海塩を使う。

昆布も、だしも使わない。ただの葉野菜と塩だけなのに、不思議なくらいおいしい。本多翁は炊き立てのご飯にのせて食べていたという。私はそのままつまんだり、米粒の形をした小さなパスタにたっぷりのせたりして食べる。

最後に、気に入っている三年醸造の醤油を少しと、サラダ油かぶどう油をかける。あっさりとした塩気にほどよいコクが加わり、それだけで十分な一食になる。

根元の泥を落とすために葉の隅々までていねいに洗わなければならないし、細かく刻む手間もかかる。それでも、火を使わずに済むというだけで、夏の台所では楽なのである。米粒のパスタも、そうめんほどの時間で火が通る。

制約があるからこそ、たどり着ける食卓がある。青菜を刻み、塩をまぶしていると、この身体にはこのからだの暮らし方があるのだと思う。それは、夏を健やかに過ごすための、小さな知恵なのである。

 

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巨万の富を築いた本多静六が、日々口にしていた「ホルモン漬け」
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お気に入りのお醤油です。小さいサイズのものを使っています。
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米粒パスタです。
ディチェコ ショートパスタ リーゾ No.74



快適と停滞

最近、三十九円のピーマンで半日を棒に振った。その日はどうしても、油揚げとピーマンを軽く炒めたものが食べたかった。最近の私は油揚げに凝っている。どうやら油揚げというものは、素材がよく、それなりに値の張るもののほうがおいしいらしい。

本当は、ししとうで作りたかった。しかし、私には刺激が強すぎるかもしれないと思い、スーパーで安売りされていた三十九円のピーマンを手に取った。

安かったことが問題だったわけではない。長年の経験で、自分にはピーマンが合わないことを知っている。それでも、食べたかったのである。おいしかった。

食後しばらくして、唇がビリビリとしびれ始めた。嫌な予感がした。気持ち悪さがじわじわと押し寄せた。血圧計を見なくてもわかる。長年付き合ってきた低血圧の体は、危険信号の出し方を私に教え込んでいる。慌てて正露丸を一粒飲み込んだ。

喉が痛いときも、鼻の調子が悪いときも、私はとりあえず正露丸を飲む。潰瘍性大腸炎には効かないことも、医学的には正しい対処ではないことも承知している。それでも手が伸びるのは、父の影響だ。

父は、大学を卒業してから定年まで勤め上げ、その後も八十歳まで働き続けた。突然体調を崩して仕事を休むような人ではなかったが、熱が出ると決まって正露丸を飲んでいた。その姿を見て育った私は、この十年ほど、父の癖をそのまま受け継いでいる。

もっとも、今回ばかりは正露丸も歯が立たなかった。寝不足も重なり、私は半日横になって過ごすことになった。

私には、食べ物についていくつものルールがある。それは本やインターネットで覚えた知識ではない。何十年もの失敗を重ね、体を張って覚えた経験である。ピーマンも、その一つだった。

ルールというものは、思いつきでは作れない。痛い目を見て、失敗を繰り返し、その経験が体に刻み込まれて初めて、自分だけのルールになる。そして、そのルールを守り続けることで、やがてルーティンになっていく。

今、私は余暇のほとんどを、このブログの構築に注ぎ込んでいる。更地に家を建てているわけではない。二〇一三年から二〇一八年頃まで本格的に書いた記事や、その後、二〇二一年八月まで細々と続けていた投稿はすでに下書きにしていたが、手を入れながら作り直している。WordPress.orgの投稿を、一つひとつ読み返すことはない。膨大、その余裕がない。 

しかし、宣伝用に無料ブログを利用していたことで、タイトルなどは見ることになる。恥ずかしい。

それでも、過去の自分と向き合うたび、不思議と目は未来へ向く。

近年、時間は過去から未来へ流れていくものではなく、未来から現在へやって来るものなのではないかと思うようになった。だから未来は、待つものではない。迎える準備をするものなのだ。

ぬくぬくと快適な場所に居続けることは心地いい。だが、その快適さは、ときに人を停滞させる。

十三年前、出版社を辞めたときも、同じような思いがあった。会社が続く限り、定年まで働くことはできただろう。それでも私は、その先の自分を想像したとき、このままでは立ち止まってしまう気がした。

新しいことを覚え、小さな目標を立て、一つずつ越えていく。今いる場所の外へ出る作業は、体力も気力も使うし、決して楽ではない。

それでも、このブログを整える時間、書く時間は、楽しい。過去を片付けることは、未来を迎える準備でもあるし、執筆は、自分に向き合える。

三十九円のピーマンで半日を失った私は、また一つ、自分のルールを思い出した。

ポケットの底の沈黙(二/全三回)

「ポケットの底の沈黙(一/全三回)」からの続きです。

高校生になってからは、こんなことがあった。

吉祥寺の、今でいうセレクトショップでのことだ。別店舗にいるオーナーとは顔なじみだった。母の入院で友達ともなかなか約束ができず、突然立ち寄れるその店は、当時の私の小さな居場所だった。店の女性と何度か顔を合わせるうち、母の病気のことまで話してしまった。 

ある日、訪ねたとき、「オーナーには内緒ね」と、ガサガサと何かの箱を取り出した。

「これ、すごいいいわけ」

締め切った店内でタバコを吸いだし、「このスプレーをかければ匂いが消えるの」と実演してみせる。サプリメントという言葉すら普及していない時代である。持ち帰ったパンフレットを見た母は一目で切り捨てた。

「これはネズミ講よ」

十六歳のヤングケアラーであるJKに、大人の女性がネットワークビジネスの営業をしたというわけだ。しばらくしてから、彼女はお店を辞めた。オーナーに理由を聞いたら、何も答えてくれなかった。

母の闘病中は、官舎のチャイムがよく鳴った。中学の同級生のお母さんが、仏教系の前述の団体とは別の新興宗教の勧誘にやってきたり、下級生のお母さんたちの中には、別のキリスト教系の新興宗教につながっている人もいた。 

退院した母が、猿の腰掛を煎じた飲み物と、「これを飲めば治る」と食べていた高額なプルーンの瓶詰めも、今思えばそうしたネットワークの類だった。職場の人が勧めたらしい。  

自身の闘病で疲弊していた十年前にも、それはやってきた。昔の友人からサプリメントのお誘いを受けた。その人は私だけでなく、群れない友人たちを当たっていたようだった。私は「自分で決めた食のルールがあるから」と断った。

別の友人からは小包が届いた。私が潰瘍性大腸炎での闘病やリハビリ期間を終え、まだ副作用がたくさん出ている時期のある日に受け取った。

中を開けたところ、キリスト教系の新しい宗教の本が入っていた。教祖の身内を「この方を心から尊敬している」と書かれた手紙が添えられていた。集会に誘うわけでもなく、ただ本を勧めてくるだけ。私は返信の言葉を選んだ。仲の良い友人だったからこそ、その人を傷つけたくはなかった。私は本を読むとも読まないとも言わず、自分のバックグラウンドや、いずれ得度を考えていることを伝えた。

 

命を囲い込む

外食する機会を作らなくなった。外食が楽しいと思う時代もあったが、今は長年の人体実験によって決めたルールに従い、自分で料理したほうが、心が満たされる。人と話をするなら、お茶だけでも十分だ。もしくは、肉親が作ってくれる食事。もちろん、時々プロの手による料理を、好きな人たちと囲む時間は今でも楽しい。

私の特殊すぎるともいえる食事のスタイルについて、自分から語ることはない。事情を知らない人にそれを口にすれば、たちまち「変わり者」「こだわりが強すぎる人」というレッテルを貼られるのがオチだからだ。何を食べても体に不調をきたさないなら、流行りのファッショナブルな健康志向の食事や、純粋に「おいしい」という基準だけで食べてみたい。大好きな豚肉の加工品や、血の滴るレアのステーキ、魚卵もたらふく食べたい。

だが、私には「雑食」ができない。だからこそ、この面倒な食事のルールを、よくわからないと言いながらも受け入れ、同じテーブルに付き合ってくれる人たちは、私にとって友達なのである。食は、コミュニティを作るのだ。

世界を見渡せば、古くから続く宗教の多くには、食材のルールがある。

これらは信仰というより、その土地の気候と衛生がもたらした生存の知恵なのだろう。だからこそ人間は、そのルールと現実の間で、常に独自の生存戦略を編み出してきた。

日本人は古来、巨大なクジラを「魚」と言い張って食卓に上らせてきた。江戸の庶民たちは「山鯨」と称してイノシシ肉を、「薬喰い」と称して獣肉を口にし、鎌倉の親鸞は「肉を食べ、妻をめ取る」と宣言した。建前という網の目をすり抜けてでも、人間は命を繋ぐために、たんぱく質を追い求めてきた。

一方で、まったく逆のアプローチで身を守った人々もいる。昔読んだ本に、かつてポルトガルのユダヤ系商人が、クジラから富を生む「油」を採っていたと書かれていた記憶がある。当時の西洋の捕鯨は、明かりをともすための油を得ることなどが目的だったともいわれ、冷蔵技術のない船上で腐敗しやすい肉を積み続けることはせず、肉や骨は海へ戻すこともあったと聞いたこともある。肉を無理に人間の食用とせず、海の生き物たちの循環に委ねる。それもまた、彼らにとって合理的な生存戦略だった。

食べることで生存を掴み取った日本人と、食べないことで衛生を守り抜いた人々。アプローチは違えど、どちらも綺麗事ではない、生きるための思想である。

そして私自身の食事もまた、ファッションではない生存戦略そのものだ。

私は15歳のとき、国指定難病の潰瘍性大腸炎(UC)を発症した。昭和の終わり、診察室で医師から告げられたのは、「あなた、死ぬのよ」という言葉だった。

UCを発症した翌年には、がんを患った母のヤングケアラーとしての生活が始まり、二十代の初めまでは、常に病と死の影がべったりと張り付いていた。母の闘病に一区切りがつき、やっと自由になれたと思ったら、今度は私自身が、その先の人生を生きることになっていた。10年前の再燃時は重症だったので、自分も、肉親も死ぬと思って準備を始めていたのに、私はしぶとく生き延びてしまった。

鳥と魚介、そしてクジラ以外の肉を受け付けないUCの私は、気をつけないと亜鉛が不足する。だから私は、硬いチーズをかじり、時には値の張る牡蠣を買い、処方された亜鉛製剤を飲んでいる。

ふと思う。旅の途上、激しい腹痛と下血の果てに亡くなったというお釈迦さまもまた、実は私と同じ病を抱えていたのではないかと。

お釈迦さまの最期の食事は、キノコ料理とも豚肉料理とも伝えられている。UCの私にとっては、キノコはたちまち腹を下す食材で、豚肉もまた腸の粘膜を荒らす。私はなめこも好きだし、前述したように豚肉の加工品も好物だ。粗食で慢性的な亜鉛不足に陥り、すでに限界を迎えていただろうお釈迦さまの大腸にとって、その最後の食事は致命的な一撃だったのではないか。二千数百年前の聖人の最期が、他人事ではなくなった。

食卓は、ていねいな暮らしを競う場所でも、ファッションを誇る場所でもない。

自分の身体が受け付けるものだけを見極め、明日もこの世界で息をするために、命を囲い込む。私にとっての偏食とは、私という原盤を守り抜くための、たったひとつの思想なのである。

平均寿命に、十歳を足して

元気に長生きする。そう決めて、生きている。

2016年の2月初旬、学生時代の友人たちと新宿の赤提灯の店へ行った。鶏肉が評判の店で、私たちは目の前に出された生の鳥刺しを、「おいしい、おいしい」と交互に箸を伸ばした。

ちょうどその頃、私は、自宅での天然酵母のパン作りに熱中していた。時おり、焼き上がりの中心が生っぽいことがあった。

赤提灯の店に行った数日後、おへその下あたりに、鈍い腹痛を覚えた。微熱も出た。近所の医師は、急性大腸炎と診断したが、すっきりしない痛みがその後もだらだらと続いた。

異変が決定打となったのは、その月の下旬だった。片方の耳を、耐え難い激痛が襲った。町の耳鼻科で外耳炎と言われ、処方された薬を飲んだ。その日の夜には、下血を伴う激しい腹痛が始まった。まさか、あれが戻ってきたのか。

私は15歳のときに、潰瘍性大腸炎を発症した。あの、安倍晋三元首相が十代から付き合っていたことでも知られる、国指定の難病だ。

後にわかるが、町の耳鼻科で処方された薬は、潰瘍性大腸炎には禁忌とされる薬だった。私は診察の際、自分が潰瘍性大腸炎であることを伝えていた。

発症から7、8年が過ぎた頃から、自己判断で服薬をやめていた。肉親からの「病は気から」「病院には行くな」「薬を飲むな」という教えの延長だった。

それでも再燃せずに持ちこたえてきたことは、自慢でもあった。自慢、といっても誰かに語ったわけではない。発症した時点で、親から「病気の話は外でするな」と厳しく言われて育った。だから親しい友人たちにすら、ほとんど打ち明けたことはない。しょっちゅう胃腸をおかしくする人と思われていたくらいだ。思い切って口にしたところで、「胃潰瘍みたいなものでしょ」と片付けられ、結局は相手の胃痛の話を聞く流れだった。

7年に一度ほど内視鏡検査は受けていたものの、これといったかかりつけ医はいなかった。親の教えが染み付いていたとはいえ、私は自分の難病を舐め切っていた。そのツケが回ってきたのだ。

地元の病院をたらい回しにされ、毎日30回以上も、手洗いに駆け込む生活が始まった。栄養を吸い上げることのできなくなった体は、みるみる衰え、足が象のように膨れ上がった。辛うじて歩けるうちに向かったのは、専門医のいない地元の中型病院だった。即日入院だった。

そこでの3週間は、点滴スタンドをガラガラと引きながら手洗いを往復するか、一日を便座の上で終える日々だった。医師がお手上げを宣言し、大学病院へ転院が決まったとき、私の40代は、別の時間になった。

不思議なもので、大学病院に移った途端、あれほど私を縛り付けていた手洗いの回数が、一日数回へと収まった。専門医がいるということは、それほど違うのかと思った。

その前の中型病院では看護師に「痛い」と言うと「がまんしなさい」と怒られていた。しかし、この大学病院では初日に「痛みは我慢するものではないのですから、なにかあったらすぐにナースコールで呼んでください」と言われた。張り詰めていたものがほどけ、安堵の涙がぽろぽろとこぼれた。

そして実に、50日以上ぶりに眠ることができた。腹痛と手洗いに行くのとで、昼寝も夜の睡眠もできなかったのだった。

だが、本当の闘いは退院後に待っていた。体力と筋力が80代以上に落ちた状態の私が一人で歩けるようになってからも、形を変えて襲いかかるステロイドの様々な副作用が、6年以上、心身を侵し続けた。経済活動をする上で、最も美しく、最も大切であるはずの私の40代は、闘病生活と副作用という見えない敵との戦いだけで、幕を閉じた。

出版社時代、私は好き放題に仕事をさせてもらった。組織に属して働くことへの悔いは、何一つない。しかし、人間の体力のピークであろう人生の約10年間を、塗り潰されてしまった理不尽さは、そう簡単に消化できるものではない。

だから私は決めている。平均寿命では足りない。失われた十年の分まで、生きるのである。 

歩くことは、私の美容法

毎日、5キロ以上歩く。雨の日も風の日も歩く。距離が延びることもあれば、4キロを切る日もあるが、歩くことをやめない。 

通勤を伴う仕事に就いていれば、ここまで距離を意識する必要はない。そうではないから、自分の中でルールを設定している。 

郊外で暮らし、出版社に勤務していた頃は、毎日10キロ近く歩いていた。日中は、書店や取次を回るなど、歩くことが仕事の一部でもあった。退職後、ほかの業界の仕事をやるようになったが、自宅から最寄り駅までは2キロ近くあった。時間通りに来ないバスを待つよりは歩いたほうが早く、結果として、歩く生活は続いていた。

その後、15歳で発症した潰瘍性大腸炎(UC)が再燃した。1カ月強の自宅療養に続き、1カ月半の入院生活。退院を迎えたとき、私の筋肉量は、80代以上にまで落ち込んでいた。一度、床に座ると、一人では立ち上がれず、階段の段差は、介助なしには上がれない身体になっていた。

実家に頼り、日常生活を取り戻す日々が始まった。最初のリハビリは、家事の一つである調理だった。しかし、20分台所に立つだけで消耗し、横になってはまた起き上がり、料理をして食べるというありさまだった。

「人は老いると、こんなふうに動けなくなるのか」。人生の終盤に訪れるはずの身体の衰えを、私は予定よりずっと早く体験した。厄介なことに、ステロイド治療の影響で、気だけは大きくなっていた。気持ちに身体がついていかず、怪我をしやすい時期でもあった。

退院間際、理学療法士からは、寝込んだ期間の3倍が、体力を回復させるために必要な時間であると聞いた。寝込んでいたのは、約80日。つまり、240日後には元の体力が戻る計算になる。私はその言葉を頼りに、肉親に付き添ってもらいながら、家の周りを少しずつ歩くようにした。

よく寝て、よく食べて、少しずつ家事の幅を広げていった。ステロイドの副作用で、かつらが必要なほど髪の毛が抜け落ちる中でも、歩く距離を少しずつ伸ばし続けた。やがて体重も筋肉量も増え、体力がついてきた。自宅でできる、自分の身体に合った範囲での経済活動も徐々に始められるようになった。その頃には、240日ほどが経過していた。

それでも万全ではない。ようやく髪が生えてきたと思えば、ステロイドの新たな副作用が出てくる。基本的には、いつもぐったりとしていた。このままでは生きていけないと思った。

そんな時、アメリカの進化生物学者、ダニエル・E・リーバーマンの『人体六〇〇万年史』(早川書房)に出会った。その中で、アフリカの狩猟採集民族の一日の歩行距離について触れられている一節があった。「これだ」と思った。女性は一日に7〜9キロほど歩くことを前提に進化してきた。

それからの数年間、私は毎日7キロを目標に歩き続けた。すると、ステロイドの副作用で極端に落ち込んでいた血圧が、元通りの低血圧の数値にまで戻ってきたのである。

やがてフルタイムで働けるまでに回復すると、毎日7キロ歩くための時間を捻出するのは難しくなった。そこで「コンスタントに5キロ」という新しいルールを設定した。

以降、UCの得体の知れない合併症がいつ襲ってくるかという不安は常にあるものの、大きな病気をすることなく日々を過ごせている。

介助なしで歩き、身体の機能を保つこと。私にとって「歩くこと」は、命をつなぐためのリハビリから始まり、今では自分にとっての最高の美容法にもなっている。健康こそ美なのだ。

 

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『人体600万年史(上):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)
『人体600万年史(下):科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房)

私が私でいるための、食卓の境界線

このブログは、約5年ぶりに再開した。2021年8月を最後に投稿をやめていたが、本格的な更新をしていた2018年2月までは、自分が15歳で発症した潰瘍性大腸炎(以降、UC)のことや、2016年に再燃したときの闘病などについて書いていた。

UC自体は、極端な肉体疲労と睡眠不足がセットになるとよくない症状が出るものの、おかげさまで今は落ち着いている。つい忘れがちになるが、薬もきちんと服用している。というのも、万が一、入院になったとき、服薬を続けていないと、現場の先生方にも負担をかけてしまうことを、2016年の再燃時によく思い知ったからだ。私は発症から7、8年後以降、およそ20年、自己判断で薬を飲まずに過ごしていた。

UCには食の制限があるとしばしば指摘される。だが、私の主治医は、寛解期であれば「体調を崩さないものなら、何でも食べていい」とおっしゃる。

これまでの人生のほとんどを難病とともに歩んできた私は、長年、自分の体で試行錯誤を重ねた末に、あるルールを作った。このルールに沿ってさえいれば、私は極めて快適に過ごすことができる。もちろん、飲食を軸とした人間関係は狭まる。それでも、こんな私のルールを受け入れ、交遊してくれる人たちが多くいることは、本当にありがたいことだ。

そのルールは一度に書ききれるものではないので、今後少しずつ触れていくつもりだが、基本となるのは次のようなものだ。

あくまで、私の場合ではある。

毎日、水を4リットル以上飲み、海塩を20g以上、タンパク質を50g以上摂る。それから、キャベツと辛味のあるものを除いたアブラナ科の葉野菜などを中心に野菜を300g以上、リノール酸を多く含む油を60gほど。離乳期に最初に食べた穀類とは別の、小麦粉製品を食べるようにしている。逆に、食べないものはたくさんあるし、年に数度しか口にしないものも数多くある。陸にいる哺乳類の肉も、外食でエキスが体内に入ることはあるかもしれないが、自ら進んで食べることはない。

この食卓の話には、まだ続きがある。

【訂正】本文中の野菜の記述に誤りがありました。キャベツと辛味のあるものは食べません。お詫びして訂正します。(2026年8月3日追記)

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